Football Fundamental : フットボール原理論

いつだったか、こんなことを昔の馴染みに書いて送ったことがあった。

いわく、フットボール原理論と名づけた。

フットボールの歴史をさかのぼってみれば、そこにUnionとAssociationの分裂を見出すことが出来て、前者がラグビー、後者がサッカーとして現在に至るということになるのだけれど、とはいえ、そんな両者のあまりにも明白な起源を捉えてみても、面白いことなど何もない。

むしろ両者を同じ土俵に載せて、それぞれの存立構造を探ってみよう、そんな企てが原理論と呼んだ所以であった。

ラグビーにもサッカーの要素があり、サッカーにもラグビーの要素があるだろう。両者のなかで片方にドミナントな何等かの要素があり、それがもう片方には目立たない、そんな捉え方をしてみよう。

両者のフォーメーション、選手の作る空間的な構造を比較してみて、まず気づくのは、オフサイドラインのことである。

ごく大雑把に言って、ラグビーには一本のオフサイドライン、サッカーには二本のオフサイドラインがある。

ラグビーは一本のオフサイドラインを境に二つのチームが対峙する形態である。概ねボールの移動に伴ってオフサイドラインが移動するから、そのことを捉えて「ラグビーは陣取り合戦だ」なんという言い方をされることがあるが、まったく間違っていると思う。陣を取ったところで勝てはしないのだから。そうではなくて、オフサイドラインを突破することがラグビーの勘所である。

オフサイドラインというのは、その向こう側に味方の使えるスペースはないということである。スペースは後ろにしかない。だから、ボールは後方へ投げられるしかないのだ(キックのことは措いておこう、戦術論ではない、原理論なのだ)。どうすればそんなオフサイドラインを突破できるか。

仮にマンツーマンディフェンスだとして(ゾーンディフェンスというのも、構造的にはマンツーマンディフェンスである。ただ、構造は変わらずに項にはいる選手が毎回入れ替わるというだけのことだ。ディフェンスを形成するその時に項にあたる位置の近くにいた選手が構造をつくるのだから、その形成は時間的に速くなるというに過ぎない)、仮にそのディフェンスが完全に機能したとしたら、オフサイドラインはせいぜいタックルされた選手の背丈くらいしか動かないだろう。

オフサイドラインを突破するためにはどうすればいいか?

原理的に考えれば、相手より速く動けばいいということになる。逆に言うと、相手を遅らせること。これがラグビーの原理である。ブレークダウンからなんどもフェーズが繰り返されるのは、相手を遅らせる機会をつくっているのである。

つまり、ラグビーの原理は「時間差」にある。

一方、サッカーの場合、ボールは概ね二本のオフサイドラインの間を動く。選手も概ね、その二本のラインの間を縦横無尽に動き回る。つまり、空間がある。空間に選手が動き、ボールを動かすこと、サッカーの原理は「空間差」である。

もちろん、これは原理論であって、こんなことを言い募ったとしても決して実用的なものではない。実践論でいけば、ラグビーでも空間を利用するし、サッカーも時間差を利用して選手を動かすのである。

ただ、こんな風にオフサイドラインに着目してみると、フットボールの分裂、ユニオンとアソシエーションの起源とはまた違った、二つのフットボールに本来的な、いわば「アプリオリな起源」のようなものとして、それを認めることが出来るのではないか、そう思ったのだ。

ところで、フットボールを時間差、空間差、つまり「差異」からながめてみようとおもったのには理由があった。当時読んでいた柄谷行人の「資本論」解釈がそれである。

柄谷はこんな意味のことを言っている。商人資本主義というのはある資源が豊富な地域でそれを安く仕入れて、資源の希薄な地域でそれを商品として高く売る、つまり「空間差」をつかって利潤を得るのだ、と。一方、産業資本主義というのは、イノベーションによって、昨日は10円をかけて作っていた商品を今日は9円で作る、つまり「時間差」によって利潤を得るのだ、と。そんな風に資本主義を「差異」から眺めて、その二つの様相を特徴づけているのだ。もちろん、実際の資本主義はその二つの絡み合いで動いているのは言うまでもない(注)。

ふと思い出して、当時古い仲間に書き送ったことを、書いてみた。

(注)この場合、商品がすべて等価交換であれば利潤はどこにも生じないということは、マンツーマンディフェンスが完璧に機能すればなんのゲインも生じない、ゲームは膠着するということに対応するだろう。