中村とうようが自宅マンションから飛び降り自殺したのは、2011年の7月21日だったらしい。79歳だったそう。
「ミュージック・マガジン」は物心ついて以来なんどとなく手にとったものの、そのなかの一本の文章でもちゃんと読んだことはなかったとおもう。ひょっとしたら買ったことすらあったかもしれないけれど、読んだ記憶もなければ、こんな記事があったという記憶ももちろんない。今でも本屋に平積みになっていれば手にとることはあるものの、そのなかのどの一本の記事であれ最初から最後までちゃんと読むこともなければ、買うことももちろんない。雑誌がつまらないと言いたいのではない、かつては読む能力がなく、いまは読む気力がない、というだけのことである。
そんな程度の興味しかないわたしが中村とうようをまとめて読んだのは、中村の自死から随分時間が経過し、何気もなく
・坪内祐三「一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」」
を手にとったことがきっかけとなった。このなかで坪内は、「ミュージック・マガジン」はカルチュラルスタディーズの雑誌だったと指摘しつつ、ロックの「おわりのはじまり」を中村の言を引用しながらあとづけていただろう。坪内にとって、ロックの「おわりのはじまり」は「おわり」に漸近するばかりでけっして終わらない、ながいながいプロセスの、そのはじまりだったわけだ。
* *
多くの本をものした中村だったが、ここでは、
・中村とうよう「地球が回る音」1991年
を取り上げよう。584頁、わたしが読んだ中村の著作のなかでは
・中村とうよう「大衆音楽の真実」1986年
と並んで、もっとも網羅的なものである。わたしが注目するのは、中村の広い守備範囲のなかでも、ロック、ブルーズ、ブラック・ミュージック、レゲエが中心になる。レゲエ以外中南米系の音楽も、晩年の中村が注目したアジア音楽にも(いまのところ)ほとんど興味はない。
「II 同時代音楽ウォッチング30年」に収録されている「ポピュラー音楽の変革」(66年11月)で中村は、ボブ・ディランの「ハイウェイ61」とビートルズの「ラバー・ソウル」を絶賛していた。これはボブ・ディラン「ハイウェイ61」のライナーノーツらしい。「新しい音楽」は「絵画におけるポップ・アートや服飾におけるモッヅに対応している。それは、従来の常識的な「美」の基準への挑戦である。もともとディランは、古い美の破壊者であった。「醜いものこそ美しい」というのが彼の美の哲学である」と。
一方、そのほぼ10年後のことである。「III ロックのための追悼文」には、死にかかったロックが断末魔の叫びをあげたのが、パンクだったと書いてある。もっと言えば、こういうことだろう。
ロックってのは、ヨーロッパ的音楽をいわば父にもち、非ヨーロッパ的音楽=アフリカ的音楽=ブルースをいわば母にもつ。それが、77年、その親たちの結婚が破綻した。ヨーロッパ的、植民地主義的、商業主義があからさまになる、そこで彼らの子供であったロックは、親たちに対し、とくに父親に対して反抗する、それがパンクであった。そして、彼らは母=ブルースへと回帰するのだ・・・・
1980年末に射殺されたジョン・レノンの追悼文、「世界史の中のジョン・レノン」は大風呂敷が素晴らしい。「港町混血児論」+「ジョン・レノン使徒論」である。中村のビートルズ論はこれに尽きるらしい。
「リヴァプールは、まさに奴隷貿易や新大陸との交易によって急速に栄え、そのうまい汁が吸えなくなったトタンに斜陽化した港町なのだ・・・・国家ぐるみの悪、いや、西洋文明そのものの悪によって繁栄をほしいままにした、なんとも罪深い町がリヴァプールであり・・・・ジョン・レノンはその罪をつぐなうために・・・・ヨーロッパ文明が、キリスト教世界が、差し出した贖罪の使徒なのである。彼がロックというアフリカに起源をもつ音楽をやったのは贖罪の方法としては正当だった。いまその彼をヨーロッパ世界自身が抹殺してしまったのは、罪をつぐなうのをいさぎよしとしないヨーロッパの悪の開き直りにほかならない・・・・だから彼の殺害は・・・・世界史の悲劇なのである」
「VII ブラック・ミュージックの変質」の「音楽としてのブラック・パワー」(70年10月)では、西洋文明のあとに来るべき「アフロ文明興隆の予兆としてその音楽だけが世界に蔓延しているということではなかろうか・・・・西欧文明は物質的な面であまりにも高度化し、普遍化した。それを破壊しつくすことは不可能かもしれぬ。そうだとしたら、西欧文明からアフロ文明への後退は精神面のみにとどまる、あるいは予兆だけで終わってしまい、そのあとに全人類の終局が来るのかもしれない」と悲観的に書いていたが、その18年後、「黒人音楽に対するぼくの立場」(88年5月)では、そのアフロ文明を代表するブラック・ミュージックですらオーティス・レディングをピークにそれ以降「アメリカの黒人音楽は総体として下降線をたどっている」、そして「ソウル・ミュージックの隆盛は黒人の社会的向上と反比例した・・・・彼らはうたうべき歌を失ったのである」という結論になってしまった。
そして、「XI 地球の裏は朝だった」に描かれる晩年の中村の未来像はこうだった。
「20世紀の終りにはどうなるのか・・・・20世紀の終焉とともにポピュラー・ミュージックの時代は終わってワールド・ミュージックの時代になる、というのがぼくの考えだ」
中村は(どこまでがそれかわからないが)平岡正明が示した展望なのだそう、それを引用しながらこう言っている、「白人音楽がロック、アジア音楽が歌謡曲、インディオ系音楽がフォルクローレ、そしてアフロ=アメリカ音楽がジャズやサンバやレゲエやサルサを統合した汎ブラック・ミュージックとなり、右の四者が準決勝戦」をやるという「弁証法感覚」によって、ワールド・ミュージックを「実体」としてではなく、「幻想」として思いえがくことができる、と。「幻想である世界音楽にむけての競合のプロセスこそ意味がある」「ワールド・ミュージックは「もの」ではなく「考え方」であり「姿勢の問題」である」「ひとつの総体としてのワールド・ミュージックなどというものは、今後も現出しない。しかしワールド・ミュージックの方向性をしっかり持ち得た個々の作品は、実体としてすでに存在する」のだ、と。ここで中村が「幻想」と言っているのは、柄谷行人がさかんに言っていた「統制的理念」に対応するだろう。実体として構成的に考えるのではなく、統制的に働く「理念」として、と。
結論は壮大になる。「ぼくの幻視では、21世紀はアジア音楽の時代だ。もっと限定的に言えば、アジア歌謡の時代・・・・ダンスではなく歌謡が求められる」そして「21世紀には、いちばん大きな人類と人類の対立、つまり有色人種と白人との最終決戦が起きる・・・・アフリカ、アジアの多神教、汎神教にもとづく慈悲の世界が現出されなければならない」。まるで石原莞爾的に壮大な話だけれども、たしかに21世紀の四半期、アジア音楽が世界を席巻している。ただしそれは、歌謡ではなく、K-POPなるダンス音楽としてだけれど。
予言はとまれ、ジョンレノン使徒論にせよ、パンクの位置づけにせよ、未来のアジア歌謡にせよ、これだけ大言壮語、気宇壮大な大風呂敷はない。これが中村とうよう音楽批評である。
* *
坪内祐三にとって、ロックの「おわりのはじまり」は「おわり」に漸近するばかりでけっして終わらない、ながいながいプロセスの、そのはじまりだったわけだ。
たしかにそうかもしれない。ロックが革新的だった時期は60年代後半から70年代はじめのごく短い時期だったのかもしれない。中村のロック論はそのようにも読める。しかし、中村はパンクをロック・ルネサンスと捉えるだけの同時代感覚を持ちあわせていたのも間違いない。70年代後半に、ロックはパンクと共に復活したのである。
そして、わたしがロックと一緒に過ごしたのは、その「ロック・ルネサンス」期、80年代のことである。1980年は、1月にポール・マッカートニーが成田で逮捕された後ソロ・アルバム「MacCartonyII」を発表し、秋には5年ぶりのアルバム「Double Fantasy」を発表したジョン・レノンが12月8日に射殺された、あの年である1。
渋谷陽一は、そのころ、わたしのナビゲーターのひとりだった。
その渋谷陽一のニュースは、今年の7月14日であった。享年74歳だったそう。
ところでいま、わたしにとって、中村とうようは批評家だけれど、渋谷陽一はどうやらそうではないらしい。わたしの印象では、渋谷はラジオのDJであり、雑誌のインタビュアーであり、ものすごいサクセス・ストーリーをもつ会社の社長さんである。最後の印象を除いて、渋谷の印象は80年代からかわっていない。
中村とうようの本はその生前にはまったく読まなかったはずだが、その死後にいくつかの著書をまとめて読み、その気宇壮大な音楽観に感心した。渋谷の本は、中学生や高校生のときに、その批評文もきっと読んだことがあったはずだが、感心した記憶はない。唯一覚えていたのが「ビートルズ穴ぼこ論」という言葉、とはいえ、その言葉を覚えているだけで、その内容は、今回読み返すまで、よくわかっていなかった。もうひとつ、
・渋谷陽一「ロック微分法」
ってタイトルだけを覚えている。買って持っていたはずだ。持っていたことは覚えているけれど、内容はなにも覚えていない。きっと理解できなかったのだろう、当時ロックを批評するということだけでなく、そもそも批評そのものの意味がよくわからなかったのだろう。当時、音楽関連本ならいくらでも読んだ。たとえばビートルズの伝記やらエピソード集なんてものならいくらでも読んだし、ロックアルバムガイドなんてのもいくらでも読んだ。音源が手に入らないので聴いたことはないけれど知識だけはある、そんな状態になったくらいに読んだ。いまでも知識は残っているのにその音源はいまだかつて聴いたことのないロックグループがいるくらい、ブッキッシュな人間とはそんなものであろう。
巨大化したということ以外、渋谷の会社の現状をよく知らないけれど、基幹雑誌はいまだ
・「rochin’on」
だろう。80年代、この雑誌はよく買っていたとおもう。しかし、それに掲載されていたのだろう批評文というのを読んだ記憶はない。買ったのだからさすがにまったく読まなかったということはなかろうけれども。インタビューはよく読んだと思う。たとえば、kieth Richardsのインタビュー記事。こんな意味の発言を覚えている・・・・
いまのロックにはロールがない、ロックはタテノリだけれど、ロールはヨコノリ、スゥイングなのだ、それがいまのロックにはない、と。
この言をとらえて渋谷は、キースは論理的な人物である、とそう評していたはずだ。
「rockin’on」の記事で、わたしがいま思い出せるのは、それだけである。
* *
中村とうようの死後にその著書を読んだように、この機会に渋谷の本を読んでみようと思った。
近所の大型書店、ジュンク堂と有隣堂に、渋谷の単著の在庫はなかった。近所の図書館を検索してみると渋谷個人の単著なら
・渋谷陽一「音楽が終った後に」1982年
・渋谷陽一「ロック微分法」1984年
がヒットするが、前者は貸出中。後者を借り出すことにした。すでに書いたように、これはかつて持っていたはずだから、読めばなにかを思い出すやもしれない。
ちなみに、同じ図書館を出版元「ロッキングオン」で検索してみると、図書だけで96件ヒットした。このなかから、
・内田樹・高橋源一郎「沈む日本を愛せますか?」2010年
を同時に借り出した。インタビュアーが渋谷陽一であったから。どうやら対談本というより、渋谷をまじえた鼎談らしい。
もう一冊、これは渋谷の周辺から彼のアクティビティの傍証になろうかとおもって借り出したのが
・橘川幸夫「ロッキング・オンの時代」2016年
そういえば、中村とうようにも、彼の周辺にいた著者が書いた
・田中勝則「中村とうよう音楽評論家の時代」2017年
という評伝あり、これが中村のアクティビティを裏書きする傍証になる。ちなみに田中によると、「rockin’on」は投稿=感想文中心の「感覚派」だそう。中村はそれを嫌い、歴史=ロック史の知識を重視したと書いていた。
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まずは、
・渋谷陽一「ロック微分法」1984年
を読んでみる。上記したように、これはわたしが中学生だか高校生のころ持っていたはず・・・・いや、1984年刊であれば高校生だったに違いない。わたしは1966年生まれである。タイトルだけはよく記憶している。渋谷が1978年頃から1984年頃までにいくつかの雑誌で発表した雑文を集めたものらしい。1984年5月に初版、それが一年後の7月には第七刷というからよく売れたのだろう。月間空手道への連載コラムまで収録されているのは、あとがきで渋谷が言うように、すでに評論への興味を失くし、原稿の絶対数が少なかったから、そういうようなものまで入れ込まないと単行本としての体をなさなかったということだろう。とまれ、読んでみて気になったことを、テーマ別にメモ書きしておこう。
まずは「当事者性」ということ。
いまでいうボーイズラブの漫画雑誌の創刊号に触れて、「同性を愛するという行為は不可避的なものである」のに、この雑誌には「当事者としての切実感もなにもない」「自らは一切手を汚すことなく欲求不満だけを解消しようとする行為のワイセツサ」という批判。
クラッシュのインタビューにふれて、「この潔さは常に彼等が状況の当事者としての自覚を持って、そこからしか発言していない事からきている」。
どうやら渋谷は投稿者の「当事者性」ということをコンセプトとして、投稿誌「rockin’on」を立ち上げたらしい。これは中村が「知識」をベースにしていたのと対照的なわけだ。渋谷にとって、ロックの主体はリスナー、だからロック批評は当事者の主体的なことからまず語られねばならない、というわけだ。この曲、ただ一曲しか聴いていなくても、聴いた当事者として語るべき言葉があったなら、それを語ればよい。その曲にまつわる背景、歌っている誰それ、演奏している誰それについての知識など必要ではない、当事者として語らなければならない、そういう考え方である。
「ビートルズ穴ぼこ論」というのも「当事者性」に関わる。
「巨大なスターは巨大な穴ぼこを埋める為にのみ現われる」と渋谷がいう「穴ぼこ」とは、どうやらリスナー側=当事者側=受け手側の「欠落部分」のことらしい。ロックの主体はリスナーなのだから、ロックスターの出現はリスナーに原因があるというわけだ。
しかし主体的に語ることと集団的な事象を分析することとはレベルの違う話である。主体を想定してみれば、ある商品が売れたのは、消費者主体に欠落部分があったから、かのようにみえる。しかしそれは、後からみればそうみえると言うことに過ぎない。主体的論理の陥穽である。
しかし、理屈っぽくなければ批評家ではない。論理的な帰結がなければ気持ち悪くって落ち着かない、そんな気性を持つ人だけが批評家になるわけだ。
次にその「論理性」ということ。
キューブリック「2001年宇宙の旅」は全然難解ではない、論理的に筋道を辿ることができる、と渋谷は言い、「簡単に理解されたら失敗だ」というアーサー・C・クラークの言を批判している。例の最後の映像には「全ての論理性が拒否されている」のだから理解不能なのは当然であって、それだからといって一切の論理性を放棄するのは「アホな連中」だと言っている。こういう一刀両断は、論争好きの批評家らしい。
価値判断の「普遍性」ということ。
山下達郎は渋谷好みではないのだろう(わたし自身もまともに聴いたことがない)、それでも評価せざるを得なかったのは、山下の音楽に趣味性を超えた普遍性があるからで、「僕の感性は、ほぼ絶対的な確信を持って、音楽的意志が向かおうとする方向をはっきりと感じと」れると断言している。
批評家が直観的に断言するのはわかる。それだけの自信がなければ批評家などやってられないだろう。理屈はあとからいくらでもつけられると言った批評家もいたのだ。
しかし、渋谷は「音楽的意志」=「普遍的意志」の根拠には「論理的裏付け」があると言っているが、それが具体的に何を指すかは書かれていない。それなら言うべきではない。
事実、渋谷が「あとがき」で自ら取り上げて、自分が批評から離れつつあることの理由を述べたエッセイ「海には出たけど泳げない」ではこう書いている。
「音楽が最も音楽的である局面において批評は最も無力であり、音楽が最も音楽的でない局面において批評はその機能を最も良く発揮する」、レゲエに比べればヘヴィーメタルなど音楽でない、「そこには絶対的基準が存在しているのだ。しかし、それを論理的に証明する事は不可能だ」「音楽を、文学的論理で語るのでなく、音楽そのものの論理で語る、それができない限り音楽批評はその自立性を獲得する事ができない」。
渋谷にとって、これが音楽批評の限界だった。
「不条理」への反抗、というテーマはその帰結である。
「人間という、このはなはだ曖昧で、中途半端な生命体を生んだまま、したり顔をして静まりかえっている宇宙に、したたかなしっぺ返しをくれてやる」のが、人間の表現行為なのであり、音楽なのだ、と。
これはYoutubeにアップされていた、「サウンドストリート」の最終回(1986年3月14日)の最後でも渋谷が言っていたことである。
渋谷流の大風呂敷と言ってもいいが、彼の習癖である「論理性」の裏返しであり、その帰結もあろう。論理に回収されない不条理ってものがある、渋谷がとり憑かれた音楽こそがそれだったわけで、渋谷にはそうしたアンビバレンスが我慢ならない。この時期の彼がユング心理学や神秘主義に向かったのは、当事者渋谷本人にしてみれば、十分論理的なことであった。
その反面、渋谷は楽観的でもあった。「進化論」への信仰である。
ヘビーメタルは堕落した様式化に過ぎない(進化論的には退化ということだ)と指摘しつつ、一方パンクには理念(=イデオロギーという言葉を渋谷は肯定的に使っている)があり、その理念は「ビートの変化」として現れ、「これまでロック・ムーヴメントにはない基本的な新しさであった」と言っている。「何故ビートが」理念たりうるかは「音楽の持つ巨大な謎である」が、これは上記した音楽批評の限界に関わる。
とまれ、「新しさ」。パンクしかり、レゲエしかり。渋谷にとって、ロックは進化しつづけるものだったろう。Youtubeにアップされていた、これはテレビ番組らしい(2015年7月12日 BS JAPAN)
・『オン・ザ・ロック!』仲井戸”CHABO”麗市 ゲスト 渋谷陽一
で、ゲストとして登場した渋谷陽一は「俺の一枚」という問いかけに、LED Zeppelinではなく、最近のラッパーの作品を挙げていた。そればかりか、返す刀で、70年代のロックが最高だと言うやつは敵だと断言している。渋谷にとって、ロックは常に進化しつづけるのだ。
* *
つぎに、
・内田樹・高橋源一郎(インタビュアーが渋谷陽一)「沈む日本を愛せますか?」2
を渋谷を中心に読んでみる。これはロッキングオン社で不定期に出版されていた雑誌「SIGHT」に連載された対談を単行本にしたもの。
たとえば内田樹の「「SIGHT」は渋谷陽一の個人誌でしょ?」という発言がある。それに渋谷は答えていないけれど、まぁそういうことなのだろう。本文のずっと後の方で渋谷自身の「テキストのほとんどがインタビューで構成されている総合誌」という言葉がみつかるが、同じことを「まえがき」で、渋谷が自ら説明している。「SIGHT」は「既存の総合誌にはないインタヴュー主体のテキスト構成」「徹底した口語体での総合誌」だ、と。
つまり、「ロッキング・オン」は不特定多数の当事者たちの投稿から渋谷らが厳選したものを掲載する雑誌だったけれども、「SIGHT」は渋谷が話し手を厳選するのだけれど、そのかわりに、彼等二人の当事者をして、徹底的に、長く、冗長に、過剰なくらいに語らしめる、そんな雑誌だったわけだ。前者は冗長な多数に対して渋谷というフィルターが後にあり、後者ではフィルターが先にあって、冗長さが後にあるということだ。後者が批評家を辞めて会社経営者に注力した渋谷の到達点、つまりビッグメディア(?、そうでなければ、作家や社会学者に認知される渋谷というカリスマのメディア)の故に可能な形態だというのはいうまでもない。
たしかに、「対談」や「インタヴュー」という「口語体」は、学者や作家たちの批評文を読むよりずっと敷居が低い。「批評空間」も「現代思想」も座談会や対談ならわたしでも読める。渋谷はいいところに目を付けたわけだ。
さらに渋谷フィルターを絞り込めば、吉本隆明やビートたけしの単独ロングインタヴューということになるだろう。
ところで、渋谷はこの鼎談でこんなことを言っている。内田と高橋が50年生まれの世代、渋谷と忌野清志郎や坂本龍一が51年生まれの世代、渋谷によると、そこに断層があり、前者が全共闘崩壊のニヒリズムを体現し、後者が同じ理由でロックに流れた楽観主義を体現しているのだ、と。
内田は、楽観主義というよりも「ロックの人は進歩史観にならざるを得ない」(ポピュラー音楽は日進月歩の作品であるから)と言っているけれども、たしかに、上記したように渋谷には進歩史観がある。
ただ、この鼎談の最後のほうで渋谷は、日本のロックはドメスティックに洗練されるばかりだけれど、映画やアニメがそうであったように、ドメスティックな洗練が世界に通じる可能性があると主張している。ただ、とくに映画を見てみれば明らかなように、これは洗練や「進化」の結果ばかりではないだろう。K-POPがポピュラー音楽の最進化系とは言えないというのと同じことだ。
* *
最後に
・橘川幸夫「ロッキング・オンの時代」
に触れておこう。「ロッキング・オン」はたしかに渋谷がリードした雑誌だったが、当然ながら渋谷ひとりで実現できたわけではない。渋谷はオルグしたわけだ。この本は渋谷や渋谷にオルグされて参加した他の創刊メンバを背景にした、創刊メンバのひとり橘川幸雄自身の青春記録、橘川にとっての「ロッキング・オンの時代」の記録である。
橘川という人は、創刊10年後にロッキング・オンを辞めたあとは出版業界で活躍した人だそう。わたしはまったく知らなかったけれど、彼が立ち上げた「ポンプ」なる投稿雑誌は岡崎京子を輩出するなど、ひろく読まれたということである。
「ロッキング・オン」は、投稿主体の雑誌だったわけだ(いまもそうなのかもしれない)。投稿主体で成り立つ根拠は、上記したように、ロックの主体はリスナー=当事者にあるから。橘川はロックを離れて、その方法論を普遍化したということになる。
* *
中村とうようは、パンクとともにロック・ルネサンスがはじまったと書いた。
渋谷陽一にとって、パンクはロックが進化することの例証のひとつであったが、けっしてそれだけではなかった。
70年代後半の胎動と80年代での開花は、日本のロックにも当てはまる。パンクはその触媒として機能しただろう3。渋谷はロックの進化を確信したはずだ。
最後に、わたしも当事者として語らせてもらおう。
渋谷陽一で思い出す、二人のロック・ミュージシャンのことである。
忌野清志郎は2009年5月2日に58歳で亡くなり、遠藤ミチロウは2019年4月25日、68歳で亡くなった。両者とも癌だったのだそう。
わたしが知る限り、というのだから、まったく特殊な思い入れでしかないに違いないのだけれど(当事者だから、これでいいのだ)、渋谷がリスペクトした日本のミュージシャンは、この二人だけだったのではないかと思う。たとえば、渋谷は桑田佳祐に何度も長いインタビューしているし、そのなかで桑田へのリスペクトを語ってさえいるのだけれど、それは多分に雑誌の編集者としての立場からそうしたのではないかと思う。リスペクトはあったにせよ、前二者ほどではなかったろう、あるいは、前二者とは意味合いが違っただろう。
忌野清志郎については、
・「rockin’on JAPAN 特別号 忌野清志郎 1951-2009」2009年
がある。わたしが最後に買ったrockin’onであり、いまでも唯一手元に残っているrockin’onである。渋谷による生前の忌野清志郎への四つのインタビューが再録されており、忌野の死後に渋谷が行った仲井戸麗市と坂本龍一へのインタビューが収録されている。忌野の死後、時を経ずして行ったインタビューらしい、二人とも快諾したのだろう。
実際、渋谷は、RCサクセションによってはじめて、日本のロックに取り組んだはずだ。洋楽雑誌rockin’onの表紙にはじめて採用された日本人ミュージシャンが、忌野清志郎と仲井戸麗市であるのはよく知られている。渋谷がDJをつとめたラジオ番組「サウンド・ストリート」にRCサクセションが登場したときの会話を覚えている。
渋谷「僕なんか、落ち込んじゃいましてね、どうして(RCの存在に)気づかなかったんだろうって・・・・」
忌野「渋谷君、そう自分を責めちゃいけない」
これ以上にイカシタ会話をロック・ミュージシャンの口から聞いたことはない。
* *
rockin’onに遠藤ミチロウのアンソロジーがあるかどうか、わたしは知らない。
渋谷が遠藤ミチロウを自身のラジオ番組「サウンド・ストリート」に呼んだとき、遠藤が私淑する人物として渋谷が紹介した吉本隆明4を、渋谷は「よしもと・りゅうめい」と発音したのを覚えている。渋谷が吉本に近づいたのは、遠藤がきっかけだったに違いない、わたしはそう思っている。渋谷自身かつて吉本を読み漁っただろう。その吉本の批評を渋谷に思い出させたのが、遠藤だったのだ。江藤淳がパブリック(共同幻想)から見下ろす批評家だったとしたら、吉本はプライベート(個人幻想や対幻想)=当事者の側から見上げる批評家だったという意見もある5。となると、そもそも渋谷の「当事者」的発想は吉本由来なのかもしれない。とまれ、周知のように、渋谷は晩年の吉本に寄りそうようにして、長いインタビューを続けた。
遠藤と渋谷の会話はこんな感じだったろう。
渋谷「つぎのアルバムの予定は?」
遠藤「曲ならまだまだ、200曲くらいあるから」
これぞパンクである。
- 1980年、Clashの「London Calling」が売れていたが、「White Riot」を聴いたのはその後だった。すでに解散していたSex Pistolsをはじめて聴いたのもこの年であった。Sex Pistolsにさかのぼった勢いで、ロンドンパンクに先立つ、ニューヨークパンクの発見もあった。Blondieは売れていたし、New York Dollsは解散していたけれどJohnny thundersは生きていた、Ramonesもいた。Television、Tom Verlaine、Richard Hell、Patti Smith….そしてVelvel Undergroundに行き着いたのだったか。同時代のニューウェイブやらパブロックやらと併せて、当事者的には百花繚乱のマニエリスム時代と言いたい気持ちがある。 ↩︎
- この本は、渋谷の発言を探してパラパラしたばかりだったけれど、さすが渋谷フィルターが選んだ二人である、なかなか面白いことを言っている。気の付いたところだけでも、ついでにメモしておこう。
2009年3月から2010年9月の政治状況は、民主党政権ができて、鳩山首相から菅首相という時期。政局であればなんにしろ小沢一郎が絡んでいた時期だったらしい。そういえばそうだったかとおもうばかり。この同時期の政情を内田と高橋がダラダラと語るという企画。このダラダラさ、冗長さが渋谷の狙いである。
鳩山由紀夫と小沢一郎の分析が中心的主題と言ってよかろうか。
たとえば、鳩山首相については、彼が「沖縄の海兵隊には抑止力があることを学んだ」と言ったことが取り上げられる。二人によると、それはつまり、沖縄に核があるということだそう。それをめぐって会話は延々と続く。
一方、会話の分量なら小沢一郎の方がずっと多い。結論だけ書いておくと、小沢一郎とは、農本主義=農民革命を目指すナロードニキであり、大衆の原像という意味で吉本隆明であり、反米という意味で江藤淳・・・・なのだそう。
鳩山と小沢を併せて、攘夷、対米独立の立場だったという総括になる。
ところで、内田と高橋は、対米従属よりも、日本がアメリカに吸収されて日本州になることを提案している。そうすれば、アメリカの大統領選挙にも絡めるし、アメリカの人口の25%は日本人ということになるから、それなりのプレゼンスが確保できると言っている。つまり日系大統領も不可能ではない、と。これについて真面目に考えてみることは、トランプ政権の今の方がよっぽど現実的な処方箋のヒントになるのではないか。 ↩︎ - とにかくRCサクセションなのだけれど、それ以外でとくに挙げたいのは、70年代後半のサンハウスとその影響下に80年代に現れたルースターズ、ロッカーズ、モッズらのこと。もっと粗く俯瞰すれば、78年に現れたサザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」とその後のJ-POPなんてことが言えるのかもしれない。 ↩︎
- 遠藤ミチロウと吉本隆明の対談は遠藤が主宰していたソノシート・マガジン「ING’O」や「MAZAR」(なる雑誌だったらしい、群雄社出版の1983年9月号だったとネットの記事にあった)に掲載されていたはずだ。吉本隆明脳軟化説なんてのはこの時期あたりのことかもしれないが。 ↩︎
- たとえば、上野千鶴子×與那覇潤「江藤淳、加藤典洋、そしてフェミニズム」文学界2025年7月号 ↩︎
