保守とはエロビデオのモザイクを守ることである

あるいは
Là-bas, au loin, la vie pouvait-elle être encore délicieuse ?
福田和也追悼

鈴木涼美というのは福田和也の弟子筋だそう。元AV女優の作家というから、紗倉まなとならべて時折、彼らの文章を読んでみる。

鈴木涼美をネット検索していたら、鈴木と堀江某いう人が参加する座談会らしいYoutube番組に行き当たった(堀江某の主催するYoutubeサイトなのかもしれない)。アダルトビデオが議題のようで、堀江某がモザイクは不要だ云々と言っているあたり、鈴木の化粧がやけに濃いなぁ、そのサワリだけで退屈し見るのを止したので、そして二度と見ようとも思わないのだから、議論の経過も、その話のおしまいがどうなったのかは知らない。

ところで、疑問が残った。

モザイクは不要だろうか?

果たして、性器の露出がいかなる理由でこの国では禁じられているのか、わたしはよく知らない。法律によるのか、出版業界の自主規制によるのか、そのあたりも判然としない。ネットで簡単に検索してみると、Wikipediaには
「わいせつ物頒布等の罪(わいせつぶつはんぷとうのつみ)は、日本の刑法175条で規定される犯罪である・・・・取締対象となるわいせつ物については、1990年代以降、「性器が露骨に描写されているかどうか」がおおよその摘発基準となっており、これが成人向け作品における局部修正の要因となっている」
と書かれており、参考文献として
・園田寿・臺宏士『エロスと「わいせつ」のあいだ 表現と規制の戦後攻防史』朝日新聞出版〈朝日新書〉、2016年
が挙げられていた。

わいせつ裁判なら、伊藤整のチャタレイ、大島渚のコリーダ、荷風作といわれる襖の下張は昨年だったか、浩瀚な裁判記録が出版されていた。

文学や芸術は措いていこう、AVにかぎっていうなら、つまり、モザイクで局部修正、こうしとけばどうやら「わいせつ」にはあたらないらしい、だれも捕まっちゃいないから、というそんな程度の理由でモザイクが広まったということかもしらん。

性器の露出が青少年の欲情を刺激して、彼らの性犯罪を加速させるなんてことはあるまい。

逆に、性器の露出にフタをすることが、真実にフタをして虚構を蔓延させることにつながり、青少年にフェイクを信じさせる結果になるということもあるまい。

むしろ、モザイクそのものに性的な興奮を覚えるという倒錯が生じていることこそが問題になるかもしれない(先のYoutubeでも鈴木はそんな倒錯を指摘していたと記憶する)。「見ること」が表層にあらわれる事象のたわむれを唯物論的にとらえることならば、見ることを放擲しそれを想像にあずけて興奮するなど、見ることの軽視に如かず・・・・とはいえ、愛すべき、われわれの世代!

あってもなくてもいい、長い間あった、それならこれからだって、あってもいいだろう。

変える必要がないなら、変える必要はない。

これこそが保守ってもんじゃあないか。

もはや横丁の蕎麦屋を守れなかった保守は、モザイクを死守しなければならない!

* *

「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」というのは、福田恒存の言葉だそうだが、それをタイトルに借りた単行本が、福田和也の生前、最後から二冊目の本になった。

保守という言葉はわからないでもない。西部邁だったと思うが、彼がフランス革命を批判したエドモンド・バークEdmund Burkeを引きながら保守を説明していたのに得心がいったことがある。論理は点と点をつないでいくようなもので言おうと思えばなんとでも言える、論理から漏れるものが歴史にはある、長い歴史で培われた文化なり伝統なりというものには論理的にそうだとは言えないにしろそれ相応の存在理由があるに違いない、したがって人間にとって大事なのは、理屈に合わないからという程度の理由で急激に変えないこと、変える必要があればゆっくり変えてゆくべきだ、とおおよそそんなことだったとおもう。理屈家の西部がこうやって論理を否定、というか、論理に留保を与えている、それがむしろ好もしかった。

福田和也という人に気づいたのはいつのことだったか覚えていないが、おそらく彼が論壇にデビューしてから間もないころだったと思う。90年代にはまだあった文藝春秋社の論壇誌「諸君」あたりが初見だったのだろう。「つくる会」なんてのがあって、自称保守の彼らから「坊ちゃん保守」なんて揶揄されていたこともあったはずだ。

福田本人は保守だという。ところが、のちに柄谷行人が福田を保守にとられたという感慨を漏らしたように、福田という人は行きがかり上、保守に与したという感じがする。江藤淳が世話してくれたから江藤に義理立てして保守になった、そんな感じである。おそらく多くの人がそう思っているのではないか(後述する大塚英志にしろ、弟子筋の大澤信亮にしろ)。やろうとおもえば、左翼シンパになら簡単になれただろう。福田が好きだというパンクロックならアナーキストを自称するのがふつうであろう。もっとも、福田がそう言うように、原理的にロックはファシズムのほうに親和的かもしれないけれど(福田はフィル・スペクターの言葉「ティーンエイジャーのためのワグナー・ミュージック」でロックを説明したことがあったろう)。

義理堅い人ではあるのだろう。実際にどうだったかわたしに知る由はないから、福田の書いたいくつかの本や少なくない雑誌の記事を読んで判断しただけである。恩師だという古屋健三をたて(対抗馬の大岡昇平を貶しつつ)、江藤淳や慎太郎をたて(対抗馬の大江健三郎を貶しつつ)、そして談志をたて(志ん朝を無視しつつ)、まるでやくざ風のロイヤリティを演じているような、親分に忠誠をつくす子分を演じているような印象があった。親分が白いものを黒だと言うとして、福田が子分だったら、そんなものいくらでも黒だと言い募ってみせただろう。あるいは、この義理立て、忠誠こそが、保守だと、福田はそう思っていたのかもしれない・・・・。

もちろん西部邁もたてた。だけれど、その対抗馬に違いない柄谷行人にはどうだったか。批評はしても、決してケンカを売ることはなかったし、むしろ互いの主張を尊重し、互いの対話を楽しむ同業者という様子ではなかったか。当代文壇監視人を<禅譲>されたこともあったし(柄谷行人・福田和也「禅譲!?」リトルモア199907)、柄谷との対談や座談会などを読む限り、保守の先輩につくすのとはずいぶん様子が異なる。

試みに、これを読んでみよう。読み直してみよう。そして福田の発言を拾ってみよう。

・柄谷行人・浅田彰・西部邁・福田和也「共同討議 伝統・国家・資本主義:保守主義の理路を問う」批評空間第II期16号1998011

柄谷・浅田の主催する「批評空間」、いわば左派のリングに、西部・福田の保守タッグが乗り込んで、当時の左右頂上決戦という趣きであった。

「ネーションに意味があるのは、結局ネーションこそが解釈の体系に・・・・他ならないから」
(ケベックを例に挙げて「経済を犠牲にするようなケベック・ナショナリズム運動がまさに経済的動機(カナダにおけるケベックの経済的差別)から始まった」と柄谷がいうのに対して)
「ナショナリズムの射程は、経済決定論を徹底的に裏切る事にある」
「国民国家というのは共通感覚の場として有効であり続ける・・・・ヘーゲル的に目的論的に考えるのではなくて、アクシデンタルに出来上がった解釈の体系としてのネーションというのは、現に存在しているし、存続するべきではないか」
(ハイデガーはアナルコ・サンディカリズムのドイツ版なのではないか、という柄谷に対して)
「ハイデガーは「労働者」とは言えないから、「民族」と言わなければならなかった。そこがハイデガーの核心・・・・」2
(柄谷「国というのは、あなたにとってはシンギュラリティなわけ?」)
「そう、シンギュラリティですね」、というのはどうやら交換不可能性ということらしい。
「ぼくが前から言っているのは、加害者の誇りということなんですよ・・・・加害者の責任という場合、ぼくは、やったこと自体については責任を持って究明するべきだし、政治的措置なり何なりをするべきことはするべきで、そのことを通じて戦争を肯定しなきゃしょうがないという考え・・・・」
(歴史修正主義についてのこういう発言が「坊ちゃん保守」と言われた所以かもしれないが、正論だろう)
「ぼくは安吾の堕落というのは宣長的な意味での大和心だと思う」というのは、いわば業の肯定ということらしい(これについては後でも触れる)、そしてそれがハイデガーではなく萩原朔太郎の「ノスタルジー=本来性」に近い、とも言っている。
(最後は自分の立場をこう言っている)
「書きまくるのが好きなんですよ・・・・質の低いものを大量に流通させるのが楽しいとわかった」

この対談で、西部はコミュニズムを不可避だと思っているから国民国家を(西部は伝統をといっているけれど)擁護する、柄谷は国民国家は不可避的に残るからそれに対抗するコミュニズムの実現に参与する、それぞれ不可避なものが思想的立場とはテレコになっているのがおもしろい。
最後の方、結局柄谷と西部の論理は対極的にみえて、ある意味共通しているということについて、福田は「そもそもカント(柄谷)とバーク(西部)はある意味で似ている」と言い「バークが保守思想家にならざるを得なくなったのは、フランス革命があって、ヒュームみたいな共通感覚のコスモロジーが破綻した」からだ、と。

「共通感覚のコスモロジー」が、たとえば「横丁の蕎麦屋」なわけだ。
しかし、西部には60年安保があったけれど、福田にはなにもなかっただろう3。カント=柄谷のように、共通感覚を懐疑して、普遍性ー単独性の軸で考えることもできたはずだ。

* *

福田が保守だったかサヨクだったか、上記のようなわけで、それは些末なことにすぎない。

むしろ一世を風靡した文芸批評家としての福田和也、わたしの印象はこうだ。

福田和也の書くものはおもしろかったけれど、個々の作品の評価は全然ダメな人。批評文はおもしろいけれど、良し悪しの評価はまったく当てにならない。文学にしろなんにしろ、評価の定まったものについて書くのはおもしろいけれど、いまの文学、いまの映画、いまの落語、いずれにしろ良し悪しを評価させると全然ダメ。学生時代には戯曲を書いていたというし、古典から19世紀の近代文学、近代哲学の博覧強記、19世紀=近代ってのはこんなもんだと見切っていたのは間違いなかろうけれど、いかんせん、古いドラマトゥルギーを好む人だったのだろう。だから、いまの文芸を評価するセンスはなかったのではないか。

福田の書くものが面白いというのは、たとえば、

・福田和也「保田與重郎と昭和の御代」の第五章「百合と山梔」

ここで福田は、保田の三島由紀夫観を、保田の、アラブ救済運動に挫折して自死した息子を補助線にして描いている。保田と三島の交流は薄く、三島はむしろ冷淡であるが、保田は熱心に三島の遺作「豊饒の海」を読んだという。福田は、「天人五衰」のラストを引用し、「ここに語られている「何もない」は虚無ではない」「「無」と逆のものである、「存在」そのものといってもいい」と書いている。こういうのが福田の真骨頂だ。

ちなみに、福田はこのような「無」のあり方を、すでに同書第二章「橋の俤」でハイデガーの「形而上学とは何か」を読み解きながら、指摘していた。存在のフレームワークというより、「純粋な存在」としての「無」である。保田が「橋」と呼んだ「建設」や「彼方」を、福田はハイデガーの「形而上学」に準えたのである。

わたしにはハイデガーなんてわかりゃしないけれど、福田の書いていることはわかるような気がする。あるいは、わからないけれど、おもしろい。

福田がおもしろいというのは、また、たとえばこんな調子。

・柄谷行人×福田和也「現代批評の核(コア)」新潮200408

これは対談ではあるけれど、当時の新著「イデオロギーズ」に書いたものを自身で解説しながらしゃべったものだ。

ファシズムとは「テクノロジーを使った、本来性への回帰の演出」、つまり「週末にはフォルクスワーゲンに乗ってアウトバーンをぶっとばして、山に行って田園に触れる」「週末に車で山中湖にやってきて、バーベキューをしている人々をヒットラーは賞賛するでしょう」「現前の散文的な現実よりも、本来的なリアリティをテクノロジーを使って虚構し、それを体験させることで、共同体を仮構すること、これが三十年代的なファシズムの基本的な構造だ」

すばらしい、お前らの生活そのものがファシズムなんだよ、そう煽られているような気になる。

この対談の後半には、宣長の「やまとごころ」について、「「やまとごころ」というのはすごく潔くて、義務に忠実なものだと思われていますが、じつは全然違う・・・・ようするに「いい服を着たい」とか「旨いもの食べたい」とか、「いい女とつき合いたい」とか「金が欲しい」とかいう人間の普通の感情を肯定するのが、「やまとごころ」であって、それに対して「君に忠」とか「親に孝」とかの理屈でいうのが「唐心」である」

おまえらの思っていることはぜんぜん違うんだよ、とこれも煽られているような気になる。

実際、福田自らそう言うように、彼の批評がやった一番の貢献ってのは、(日本における)フランスのレジスタンス信奉の虚偽を暴露することであり、ド・ゴールの(日本における)評価をひっくり返すことにあったはずだ4。つまり、デビュー作「奇妙な廃墟」でフランスのコラボをまとめて論じたこと、それに尽きるということになるかもしれない。それで本人が言うように、研究者の道が断たれるなんてことがあるかどうか知らないけれど、これはわたしに限らず一部のエラーいフランス研究者にもウケたはずだ。たとえば、クイズダービーで有名な篠沢秀夫は自著「フランス三昧」でシャルル・モーラスを取り上げた福田の名を挙げて「エライ」と書いていた。よく言った、快哉を叫んでいるわけだ。

* *

ところで、先に福田の書くものは面白いけれど、良し悪しの評価は全然ダメだと書いた。
じゃあ、ダメな方はどうか。
たとえば、慎太郎の小説を絶賛したこと、談志晩年の「芝浜」を絶賛したこと(談志に破門された快楽亭ブラックは「くさい」と言ったが、そのとおりである)、(ヤクザ映画以外の)映画の評価もダメだった。

慎太郎の「わが人生の時の時」を評価したことについては、おそらく福田の最後の文芸誌掲載となった慎太郎追悼文

・福田和也「追悼・石原慎太郎――最後の冒険」新潮202204

でも、「今でもこの評価は正当なものだったと信じている」と書いている。

福田は学生時代には葉山で暮らしたというし、高校から大学時代に「太陽の季節」に描かれるような学生時代を、つまり、不良とかヤンキーと言われるようなのとはまったく異質な、金持ちの親の金を自由に使って豪遊するような学生時代を過ごしたらしいから、慎太郎のその時代にあこがれと共感があったのだろう。いわば、自分のころ、80年代のそれはフェイクであって、慎太郎の頃のが「本来性」であった、と。そこに福田の慎太郎評価の根源があるのだろう。それにしても、慎太郎は「肉体性」、それに対して、福田の(三島もだろうけど)運動神経は無残だったというのだが。

それが「放蕩」って?
「放蕩」した結果「破滅」したなら、律儀に「放蕩」したとも言える?
そうではない、「放蕩」は律儀だったら「放蕩」にはならない。「放蕩」するには真面目すぎたのだろう。むしろ粋がっている自らを自嘲しながらそう言う、いわば、ロマンチック・イロニーのようなものだったのではないか。

もうひとつ、福田は大江健三郎を評価しなかった。できなかったのかもしれない、まさか江藤淳に義理立てして、あるいは慎太郎にってことはなかろう。「日常生活の冒険」をつきあっていた彼女に読ませたら、そんなのはぜんぶこっちに書いてあると、伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」を逆に読まされた、とそんなことを書いていただろう。さて、このエピソードは事実かどうかは措くとしても、後者が前者の元ネタなんてことはない、わたしには全然別物としか思えない。

とはいえ、ロック、とくにブルースを好んだことや九州の「サンハウス」や「ルースターズ」を取り上げたこと、「仁義なき戦い」などヤクザ映画を愛したこと、そして、神保町の「キッチン南海」のカツカレー・・・・これで福田和也に注目し、共感したのも事実なのだ。

* *

さて、福田の晩年、いまからおもえば晩年、彼の最後の単著「放蕩の果て: 自叙伝的批評集」に収録されているいくつか、特に「新潮」に発表されたものはほぼすべて、わたしは発表時に読んでいた。

福田には「晩年の様式」5があったろうか?

後述する大澤信亮の追悼文には大澤が福田に最後に遭遇したときのことが書かれている。国立博物館の顔真卿展だというからネットで検索すると、2019年1月か2月らしい。すでに福田は大澤を認知できなかったと書かれている(そういう病気だったということだろう)。「先生の文章はその後も発表された。あの状態で書いているのかと思った」。「新潮」2019年2月号には前年の秋に福田がパリを訪ねた旅行記が掲載されていたし、7月8月号には小林旭論が発表され、9月号は江藤淳没後二十年特集に、後述する追悼文集の中でもしきりに取り上げられていた「妖刀の行方」を寄せている。わたしが最後に福田の文章に触れたのは「新潮」2022年4月号の慎太郎追悼文だったらしい。冴えない、痛々しい印象ばかりだったのだけれど、その痛々しさは、
・福田和也コレクション1
の最後にあった
・伊藤彰彦「【解説一】実録外伝・福田和也」
を渋谷の図書館で読んで得心した。家出して若い編集者と一緒に暮らしている、と書かれていた(これが先に触れた「放蕩」の結果の「破滅」の意味であるから、「放蕩」というわりに、たいした「破滅」でもないのだけれど、彼の文章から感じられる痛々しさの根拠にはなるだろう)。

福田に「晩年の様式」があったとしたら、2013年に「新潮」に連載した「鏡花、水上、万太郎」あたりかもしれない。なにか新しいことを試みているらしいことはわかった。
評伝と批評と、それから戯曲?引用ばかり・・・・コラージュといえばよいか。
この連載、最後は三月の休載を経て唐突に終わったのだけれど、おそらくすでに家出して、そしておそらくは体調不良で、そんな状態のなかでそれでも書けるスタイルを探していたのかもしれない。

* *

福田和也が亡くなったが、文芸誌の取り扱いは左程大きくはなかった、意外なほどに。

わたしの知る限り、
「文学界」の2024年11月号には平山周吉と酒井信、
「新潮」2024年12月号で島田雅彦、柳美里、大澤信亮
文芸誌の周辺だと、
「読書人」2024年11月1日号には風元正ほか二名
「文藝春秋」2024年11月号には立川談春
といった具合。

このなかでは先にも触れた大澤信亮のものが唯一読ませるものであった。渾身の力作といっていいだろう。まさに同誌上で小林秀雄の評伝をネチッこく続けている大澤であるから、自らの師匠にあたる福田の追悼文ならこうなって間違いないというような、ネチッこい筆致で描かれているのがむしろ好ましかった(が、これについてはすでに上記したことに尽きる)。

ところで、追悼文はウェブにもあった。

そのひとつ。ひょっとしたら福田の死を知ったのは、この追悼文を目にしたからだったかもしれない。決定的なものであった。しかし決定的であったのは、なにもわたしに限ったことではなく、以下に触れる、おおよそあらゆる福田への追悼文の書き手がこの追悼文に枠づけられているようにも思われる。

追悼・福田和也「保守革命主義者のとんかつとアジビラ、その享楽」 ーー絓秀実・寄稿

つまり、福田の文章はおおむねアジビラであった、だから残らないし、残る必要もない、というのだ。
たしか福田は、90年代の前半、絓秀実を畏れよと書いていたはずだ。おそらく絓はフランスのレジスタンス(の日本における評価)について福田と問題意識を共有していたのだろう。

それにしても、90年代、ゼロ年代には文芸批評の第一人者だったし、出版界を席巻していたという福田である。これだけの追悼文だとちょっと寂しい、そう思っていると、これが出た。

・「ユリイカ」の2025年1月臨時増刊号「総特集 福田和也」

どうやら編集長が福田和也の慶応藤沢キャンパスのゼミ出身者らしい。彼がかつてのゼミ生や福田の旧友らに追悼文を依頼し、そうしたものがコアになって、この浩瀚な雑誌ができたものらしい。だから、後述する佐藤和歌子がそのブログに書いているように「福田和也のオトモダチによる文集」という側面もあるが、その佐藤が現物を手にして修正したように、プロの書き手による批評文、あるいは追悼文も、それなりの分量を占めている。
もちろん、事情を知らないわたしの勝手な印象に過ぎないのだけれど、福田の総領弟子なら佐藤和歌子、そうでなかったら大澤信亮かと思っていたのだけれど、生徒には酒井信だとか他にも批評家になったり、出版人になったりした人が多いらしい。鈴木涼美も書いている。彼らの追悼文を読んでみればわかるように、福田は大学の先生として、ゼミ生の就職のケアまでするあたり、いい先生だったわけだ。

とにかく、この雑誌はなかなか楽しめた。
印象にのこったものを挙げておこう。

まずは、大塚英志。

大塚は、絓がいうアジビラにたいして、「ダダ=駄々」だと言っている。なるほど、福田もパンクはロックのダダだったと言っていたことがあったはずだ6。つまり、福田の保守は江藤淳らそれ以前の従来保守のダダだったというわけだ。
大塚によると、いわゆる保守の人は消え去った幼児期の甘美さに固執する人たちで、たとえば江藤淳や西部邁なら「妻」、石原慎太郎なら「美少女フィギュア」(本当だろうか?)、三島由紀夫なら「仮装」、そのそれぞれを自身の「ライナスの毛布」7としていたと言っている。
福田はそんな幼児期を離脱した「イヤイヤ期」の「ダダ=駄々」だったと。
「「敢えて」保守を選択したことで彼という人はやはり損なわれたのかな」、福田は江藤より柄谷と気が合ったのだろう、大塚はこの文章をそんな風にしめくくっている。

椹木野衣の追悼文。

田口賢司「ラヴリィ」が「近代以降の小説のひとつの到達点であると考えているが、それはおおむね福田も同じ見解のようだった」と書いている。
ウィキペディアによると、田口とはテレビマンユニオンに在職しながら小説を書いている人らしい。学生時代から物書きの活動もしていたと書いてある。さっそくどんなものかと思い、近所の図書館で借りて読んでみたのだった。ふむ、高橋源一郎のような・・・・ブルースの固有名詞がたくさん挙げられる、これに福田は反応しただけではないか、と勘ぐったり・・・・。これが「到達点」なら、まさに近代小説の終りではないか。

福田が「フランス人の嫌がること」を意図したなら自分は「ドイツ人の嫌がること」を意図して彼らのナチ時代の文化的コンプレックスを対象に研究を始めた、とそう書いているのが田中純で、田中も福田の立論の粗雑さを指摘した上で、絓秀実の「アジビラ」に同意している。デヴィッド・ボウイで浩瀚な書物を上梓した田中は、福田と同い年だそう、生前の面識はなかったというが、なにやらシンパシーがあるのだろう。後半は、福田の「放蕩」を生真面目に取り上げて、福田が放蕩することに対してsincérité=生真面目で誠実であった、福田の存在理由というのはむしろここにあった、と。

ほかにも、このユリイカの特集号ではじめて目にした名前があった。
若い批評家さんらしい、あるいは、学者さんというべきかもしれないが、田中純のように生真面目に福田を論じている人たち。たとえば、

・山田広昭「敗者の群像、あるいは敗北の光学――『奇妙な廃墟』(一九八九)」
まず、福田がコラボを取り上げたから自分は学者になれなかったと言っていたこと、それを否定し、コラボ研究でも学者にはなれると言っている。また、福田も引用したアドルノの「アウシュビッツの後で詩を書くことは野蛮である」について、そのヒューマニズム的解釈、表象不可能性の解釈いずれをも否定し、「アウシュビッツの後」というのは端的に「後期資本主義の後」ということに過ぎないことを指摘している。つまり、これは福田が指摘していたことであって、いわばブロイラーはファシズムである、ということなのだ、と。

・梶尾文武「福田和也と批評のサンボリスム」
梶尾というのは神戸大の教授さんらしいが、これは感心、なかなか面白い文章であった。まず、福田の仕事を平野謙の戦後文学史、江藤淳の批評につなげ、そのうえで「保田與重郎をロマン主義から切断し、あくまでサンボリズムの系譜を引く古典主義者と見立てたところに、福田固有のアングルが認められよう」。この「サンボリズムの系譜を引く古典主義者」=アンガージュマンというのが、福田が「奇妙な廃墟」で定義した古典主義であったという。また、保田とツェランを並置したことに対する守中高明からの批判への応答で、福田が「暴力」と言っていることを引用している。こういうところまで、さすがに学者さんはよく調べている。

ふーん、ツェランってのはよくわからないが、とにかく保田與重郎を並べられたことが守中って人には気に入らなかったってことなのだろう、それに対して福田は「暴力」と言った。なるほど、もしそうならば、これを上記の大塚英志の福田評につなげれば、
「ダダ=駄々=暴力」
ということになる。
これでいいのではないか・・・・。

* *

このユリイカを手にとって最初に思ったのが、あれ不思議、佐藤和歌子も大澤信亮もいない、ということ。大澤信亮は「新潮」の追悼文で決着がついたかもしれない、しかし佐藤はどうした、と。

そこでネットにあたってみると、佐藤和歌子のブログがヒットした。

佐藤はすでに物書き業から足を洗っているのだそう。それでもユリイカからの執筆依頼には応じた、ところが、それが掲載拒否にあった、とそう書いている。

このブログには、福田の晩年、佐藤が編集したという
・福田和也「病気と日本文学―近現代文学講義」(新書y)
についての証言もある。「最終章に単行本のための「特別講義」を設けたが、レコーダーを回しても福田さんは意味のあることをほとんど喋らなかったため、指定された教材と断片的な言葉を手掛かりとして九割方は私がでっちあげた」、すばらしい。

佐藤は福田のことでずいぶん消耗したらしい、傷心したというべきだろう。
しかし、ただ傷心したわけではない。例の「妖刀」に突っかかっている。

「そんな妖刀なんてものが本当にあったとしたら、先生が出ていったあの家に置いてきたんじゃないですかね」

「妖刀の行方」で福田がかかる妖刀に言及するその直前、福田が引用した江藤の言葉、「皮肉で刺すのが批評」。
その筋なら、佐藤和歌子が「妖刀は奥さんが持っている」と皮肉で刺したのだから、妖刀があるのは「先生が出て行ったあの家」ではない、妖刀は佐藤が持っている。

是非、佐藤和歌子に書かせなければならない!

  1. この座談会で西部は、のちに本人が決行することになる入水自殺への願望とその具体策を語っている。 ↩︎
  2. しかし、その前に柄谷が言ったこの発言に注目したい。「存在と存在者の差異とかいうのも、抽象的なレヴェルで語られるけれども、本当は具体的な話ではないか。労働と疎外された労働とかね」。柄谷のこの唯物論的な感覚、これがスゴイ! ↩︎
  3. 「私には喪失がない」と福田は言っている。福田和也「妖刀の行方」新潮201909 ↩︎
  4. これも晩年の福田和也「妖刀の行方」新潮201909で本人みずからそう言っている。 ↩︎
  5. エドワード・サイードによると「晩年の様式」というのは、老年期の枯淡や完成なんというものではなく、むしろ芸術家が自らのそれ以前の仕事を否定したり破綻させたりするような、そんなアグレッシブな様式なのだそうだが・・・・ ↩︎
  6. 福田のロック論に感心したことがあった(ひょっとしたらそれで福田に興味を持ちはじめたのだったかもしれない)。三浦雅士のやっていた「季刊アート・エクスプレス」のロック特集号1994年夏号、「ロックには何もやるな」なる表題も覚えている。(鋤田正義だろう)ボウイの表紙であった。アーマ・トーマスの歌ったTime Is On My Sideをストーンズがカヴァーしたことを取り上げて、ロックの本質というのは、マッチョじゃない、男が歌うこの未練な女心なのだ、とそんなことを書いていたのだったと思う。たしかに、ブルースの歌詞なんて女々しい未練や罵りの言葉ばかり、ロックはそれを踏襲するだろう ↩︎
  7. 離乳のさなかの幼児が母親の乳房の代替品として固執するものだそう。ライナス君ってのは「スヌーピー」に登場する幼児キャラで、彼はいつも青いタオルだかなんだか抱えているのだそう ↩︎