「逆説」のない世界、正論を吐くジジェク

ジジェクの近著「「進歩」を疑う」(NHK出版新書、2025年7月10日)が書店の新書棚に平積みになっているのを見たとき、ある既視感にとらわれたのだけれど、その原因に思い当たったのは、読みはじめたあとのことであった。

あれっ、これ、前に読まなかったっけ?

いや、新刊だからそんなはずはない・・・・

とようやく思い出したのが、ほぼ一年前にほぼ同じ装丁でおなじ出版社からでていたジジェクの新書があったはずだ。わが家の数少ない蔵書棚にあっさりそれは見つかった。

・・・・似てる、ちょっと違う、わたしの装丁トポロジー観でいくと、まったく同じ本。

しかし、じつにまったく同じ本なのではないか?

* *

「戦時から目覚めよ」(NHK出版新書、2024年5月10日)は最初のところだけしか覚えていない。フランス語(やジジェクの母国語であるスロヴェニア語でもそうらしい)で未来を表す語には、futurとavenirとがある。前者は現在に続く未来を表し、後者は現在から切れた未来を表す(突発的な未来、à venir)。となると、とジジェクは言う、ピストルズの、ジョニー・ロットンの、あの「no future」はこう解釈すべきだ、

non futur, mais avenir ! ー no future, but revolution !

なるほど、こういえば違う未来が垣間見えるような気がする。

これはいい、ジジェク、グッジョブ!

しかし続けてジジェクは、こんな風に書いていたのではなかったか。

未来を変えるためにはそれを帰結する過去を変える必要がある、反省する必要がある、と。このあたり、当時さかんに見かけた東浩紀の「訂正」に通じる議論だと思ったものだった・・・・

・・・・のだけれど、あのジジェクがそんな正論を吐くのか、とも思ったのだった。

この本の感想はそれだけである。

* *

そして、「「進歩」を疑う」(NHK出版新書、2025年7月10日)を手にとった、ジジェクだから手にとらないわけにはいかない。

これも前著と同じく、時事問題にかかる短文を、前後脈絡なく並べたようなもの。主にウェブ記事だろうか?書きなぐった文章という印象。今回は2024年のアメリカ大統領選前、まだトランプ大統領の第二期は決まっていない時期の文章である。

各章を簡単にまとめてみると、こんな具合になる。

第一章、「「進歩」を疑え」という主題が最初に提示されるのだけれど、むしろ「進歩」をナイーヴに信じる人がいまさらいるだろうか?「進歩」、たとえば革命はその結果ではなく、それが孕んでいた潜在性に注目すべき、と書いている。柄谷行人ならカントにならって「統制的理念」というところではないか。どうやら前著の「未来を変えるためにはそれを帰結する過去を変える必要がある、反省する必要がある」を言い換えたものだと読んだ。

第二章は斎藤幸平の「脱成長コミュニズム」への批判、斎藤のプランを実現するには日本の江戸時代の鎖国レベルの専制政治が必要だ、と書いている。

第三章は加速主義批判、しかし加速主義ってのはただの形而上学、さもなくば宗教ではないか。

第四章でジジェクは量子力学を持ち出すのだけれど、その必要があるだろうか。柄谷の遠近法の倒錯、デリダの差延のように、現状には過去の痕跡があり、それによってわれわれは過去を構成することができるということ、ヒトの解剖はサルの解剖に役立つのであって、その逆ではないということ。決定は共時的な構造で決まっているように見える(なので責任はあり得ない)としても、その構造も過去に遡行することによって見出された構造ということになろうか。ジジェクが柄谷やデリダと違うところがあるとするなら、現状には過去の「あらゆる」痕跡=可能性が反映している、ということか。その「あらゆる」を強調するために量子力学的重ね合わせ=ホログラフィーを持ち出したのだろうけれど、成功しているとは思えない。

第五章ではこんどは相対性理論を階級闘争の解釈に使っている、これはただ単に、いただけない。最上層からみれば社会はうまくいっているが、最下層からみれば社会は分裂している、そんなことと相対性理論が関係あるはずないのだから。

第六章はトランプにしろルペンにしろ、彼らが意図的にしているのは「もっと悪くする」ということだという指摘。もっと悪くすることによって保守的な旧体制を守ろうとしているのだ、と。この言い方は悪くない、ジジェクらしいかもしれない。

第七章はドグマに固執せずに、しかしみずからの大義(理念)を捨てることなく行動すること・・・・と言ってるように読めるのだけれど、そんな当然なことを指摘することでジジェクが何を言いたいのかよくわからない。ウクライナ戦争が念頭にあるようだから、撤退戦にあっても、自分の立場に忠実な論理的な解を探せということかもしれないが、そんな当然なことを敢えて言う意味がよくわからない。

第八章はトランプが複数の有罪判決を受けた犯罪者であることを、アメリカ内戦をテーマにした映画を紹介しながら語るのだけれど、そもそも駄作らしいそんな映画をもちだすとは・・・・。

第九章はとくにフランスのアフリカに対するあからさまな植民地主義、それに対して原理主義に基づく反植民地主義、前者は進歩的(LGBTQ+)なのに対して後者は権威主義的、どっちもどっちなのだけれど、それならフランスが(自国の経済的基盤も含めて)その植民地主義をみなおさなければならないだろうというジジェクの提言はどうしようもなく正しい(・・・・だからつまらない)。

第十章のタイトル「我々はバイオマスだ」、資本主義が再利用しようとするバイオマスだけでなく、瓦礫=無機物の廃墟だけでなく、(ガザがそうなっているように)動物の死骸、人間の死骸の散乱する瓦礫のなかにわれわれはいる、そのことをイメージせよ、というのが「我々はバイオマスだ」ってことか。

第十一章が取り上げるのは、韓国と北朝鮮の緊張のなかでも韓国の生活はのほほんと安閑としていること、隣国日本も同じ。かつてフランシス・フクヤマの「歴史の終り」は日本だったけれど、北朝鮮の存在があるだけに、いまや韓国の方がそれに相応しいということらしい。

第十二章でジジェクは「否認」とは不都合な現状(右翼の台頭、環境破壊など)を認めながら、しかしそれが現実化しないという希望的観測のもとで結局不都合な現状を無視すること、のように定義し、この態度がわれわれの(というのは、先進国といわれている各国の平均的な人々ということだろう)基本的な態度だと指摘。しかし、2024年7月のフランス総選挙で当初の予想をくつがえしてルペンの国民連合が第三党に沈んだことを挙げて、ここには否認から目覚めた人間の姿があることと指摘している。

こうしてまとめてみると、どうしてジジェクがつまらなくなったのかがわかる。斎藤環ではないけれど、これまでのジジェクはラカンの「逆説」を駆使して社会を過激に切りとっていた(平凡な見方をひっくり返していた)が、前著同様、この本のジジェクはただの正論しか言っていないわけだ1

そして、どうやらそれはジジェクの能力の問題、世界情勢はジジェクをもってしても分析困難というわけではなく、つまりジジェクの才能の枯渇ではなく、むしろ、社会の方から分析するべき謎や裏や逆説が消えて、だれがみてもおなじ、大人がみても子供がみてもおなじ、見たまんまの世界になってしまったから、ではないか・・・・どうやらそうに違いない。

  1. そしてもうひとつ、現代物理学の知見を引用したがること。どうしてそんなのが必要だろう?リベラルアートでいいではないか、ユマニスムでいいではないか、人文主義でいいではないか! ↩︎