「週刊読書人」2023年12月22日号は年末恒例となっている苅部直、宮台真司、渡辺靖の鼎談。恒例とはせいぜい五六年くらいと思っていたが、冒頭で苅部がもう15年と言っている。15年前なら「図書新聞」とあわせて毎週買っていたころだが、最近はこの雑誌(というか新聞というか)もほとんど買わなくなった。文芸誌も読みたいものがなくなって久しいし、文藝春秋にしろ中央公論にしろずいぶんつならなくなったものである。
最近買わなくなったものを買おうとおもったのは、図書館でさっと目を通していると、こんな発言が目についたから。
「未来を前提とした現在の道具化(目的合理化)つまり自体的なもの(価値合理化)の空洞化が生じ、「生きづらさ」が増しました」
話しているのは宮台真司。この人の著書をちゃんと読んだことはなく、山口昌哉と大澤真幸と一緒にスペンサー=ブラウンの著書を訳した人、ブルセラ・援交とおやじ狩りをつなげて論じ(たかどうかもよく知らないのだけれど、そんな印象があっ)て評判になった人、そんな程度の認識だったところ、いつだかに中島岳志が「宮台はぼくらの時代の論壇のスーパーヒーロー」のように言っていた(もちろん正確ではない、記憶で書いている)のを読んで、驚いたことがあった。この読書人の鼎談は毎年読んでいたはずで、これ以外にもときおり雑誌の短い記事や対談などを読んだことがあったと思うが、中2病から抜け出すために中2病を分析している人という印象(じつは中2病ってのもよく知らないのだけれど、その無知もふくめた印象なの)で、要はあまり感心したことがなかったのだ。
ところが今回、上の発言にひかれてこの雑誌(といおうか新聞といおうか)を買って読んでみるとすこしばかり感心することがあった。
宮台が自らの殺傷事件を分析するのは例の調子で、殺傷犯について語りながら彼自身を分析しているようなのだけれどそれはそれとして、そのなかで「未来を前提とした現在の道具化(目的合理化)」と「自体的なもの(価値合理化)」を対比的に言っているわけだ。
これが、目的を持つのは不純であり、なにをしなくとも存在することそれ自体こそがもっとも尊重されるべきだという意味であれば大いに共感したい。
たとえば、道。
道の優先権は車やバイクなど道具にあるのではなく、もちろん人にある。しかし、人といっても、こちらからあちらに行くために急いでいる人ではない。そこに突っ立って何もしていない人、あるいは徘徊している人、そんな人にこそ、道の優先権があるのだ。つまり、目的をもたない人、そこにいるだけの人に、まずは優先権があるのだ。車やバイクは道具であり、つまり目的があるから、それは「存在」にとって不純である。目的をもって(急いで)いる人も同様に不純である。目的をもたない人、「存在」それ自体にこそ、優先権がある。だから、ハンディキャップのある人、幼児、老人、認知症の人などなどに優先権があるのだ(※)。
そういう意味として宮台の「自体的なもの(価値合理化)」をとらえたのだが、宮台の発言はその先も悪くなかった。
「未来を前提とした現在の道具化(目的合理化)」と「自体的なもの(価値合理化)」、その二元論における前者の優越、それを社会に射影したら「所属集団の座席争い」が「公共プラットフォームの保全」より優先され、既得権益が重視されるアベノミクスということになる、と。なるほど、と感心したのはこんな次第であった。
残念ながら、それ以降この鼎談はさほど面白くない。ウクライナ戦争にしろガザ戦争にしろ、結局アメリカの上下階層、ウクライナの上下階層、イスラエルの上下階層のように、最初に宮台の言った二元論に帰着するような二元論を変奏するだけの鼎談、そんな印象であった。苅部には彼の近著「小林秀雄の謎」についてもうすこし話してもらいたかった。
ところで、さきの「道の優先権」についてはもう一言しておきたい。
道の優先権は何もしない人にある。しかし何もしない人にあらゆる優先権があるというわけでは、当然ない。たとえば、どんな仕事場にもほとんど何もしない人がひとりくらいはいるだろう。これはただ単に困った人なだけで、かれに何もしない優先権があるわけではない。
わたしはこういう困った人をメルヴィルの短篇小説にならって「バートルビー」と呼んでいる(※※)。
※この意味で、実存主義が「未来に投企する」なんてことをいうなら、それは失効した哲学である。これからの哲学は「存在」それ自体の、現在のそれ自体の、いってみれば、認知症の哲学こそである。
※※ただ、Melvilleの「Bartleby」は怠惰な人ではない。”I would prefer not to”(しない方がよいのですが、と訳されているがそれ)というのはどこか倫理的な感じがするし、かれの最後の姿もなにか求道的な感じさえする。
