寓話

もう50年も昔のことになる。御池通と四条通を結ぶアーケードの、その端のほうにある古本屋だったとおもう、そこで購った古本に載っていた話である。題字は「半島古事拾遺」、著者は金森何某、奥付には昭和13年6月とあるが、薄い冊子で私家版らしい。
丹後半島の、そのとある港町に伝わる話を書き残したものらしい。
そのうちのひとつ、適宜省略するとおおむねこんな話である。

***

この地に向かいの大半島朝鮮から逃れてきた年老いた亡命者がいた。名を金シンといった。
金はいわば魔術師であった。
金が念をこめて呪文をとなえると、同じ物がもうひとつ出現した。どんなものでも、同じ物がまたたくまに目の前に、どこからともなく出現するのである。

金は群雄割拠する朝鮮で生国の壊滅が決定的になり、大量の亡命者がこの島国に逃れてくる以前からすでにこの地にわたっていたが、大和に上るでもなく、金はこの地に留まっていた。朝鮮半島の政情は、そして大和の政情もすでに不安定であり、丹後半島には頻繁に人の往来があった。金は朝鮮からの追手もまた大和からのそれをも逃れようとするかのようであったが、その理由はだれも知らなかった。

金は海を見下ろす山腹の洞穴に暮らしていたが、そこをひんぱんに訪ねてくるひとりの少年がいた。名をヨシといった。ヨシは洞穴に近い小さな集落に母親と二人で暮らしていた。
ヨシはうわさに聞く金の不思議な魔術をみたかったが、金はめったにその魔術を披瀝することはなかった。
ヨシが金を慕い訪ねるのは、魔術をみることよりも、金がたくさんの不思議な話をヨシにしてきかせるからであった。それはおおむね、大陸につたわる不思議な伝承であった。とくにヨシが気に入っていたのは、城砦に閉じ込められた姫君を救い出す勇者の話であったが、頭の中に得体の知れぬ生きものが棲みついたシナ人の話はヨシを怖がらせた。どんなにもがいても生きものは頭の中から出て行こうとしないのだ。
金もヨシの器量を気にいっていた。ヨシは海で釣った魚をもって金を足しげく訪ねた。

金が洞穴にすみついてから数年がたったころ、集落に近い海岸に数十人の敗残兵とおぼしい集団が漂着した。朝鮮半島からの往来は多かったとはいえ、これだけの規模の集団が一挙にやってくるのははじめてのことであった。
集落民は驚いた。大和からの海岸警備兵が到着する以前のことであったのだ。

ヨシの家でも非常事態であった。この当時この地では、人間の身を護るためには、龍をあしらった勾玉を身につけておくように信じられていた。ヨシの母は大事にしまっておいた勾玉に紐を通し、ヨシの首にかけた。
ーー母様のはどうする
ーーわたしはつけなくても大丈夫だ
ヨシは信じなかった。身を護るためには龍をあしらった勾玉が必要なのだ。しかし、それは高価であるうえにこの地では容易に手に入らない。これを作る職工人はこの地にはいなかった。

次の日のまだ夜のあけぬころ、ヨシは海に行き、魚をとりはじめた。ちいさな魚ならいくらでも捕まえることができた。しかしこの朝はそんなものを捕まえてもすぐに放した。大きな魚が必要だと思った。魚をつかまえては放し、それをなんどもくりかえし、もう陽の暮れようとするころ、ようやく身振りのよいサバが獲れた。

ヨシはサバをかかえて金を訪ねた。母のためにこれと同じ物をだしてください、そう頼んだ。金はしばらくヨシの右のてのひらにのせられた勾玉をじっとみて、それから左手がつかんでいるサバをみた。

とつぜん金が目の前から消えた。そんなふうにヨシは感じたとおもった刹那、ヨシは左側に身体をかしいで、左手に握っていたサバの尻尾を放していた。地面に落ちたサバは二匹であった。そして、はずみで握りしめた右の手には、龍をあしらった二つの勾玉が握られていたのだった。金はかわらずにヨシの眼の前にいた。

これがヨシが金の魔術を見たはじめてであった。

またあるとき、ヨシの集落にただひとつあった厠がいっぱいになったことがあった。当時の厠は地面に深い穴を掘っただけのものだった。それがいっぱいになると、となりにおなじような深い穴を掘り、それを次の厠としたのだった。ただし、竪穴を掘るだけではすまない。地表からのぞく穴はほんのひと跨ぎであるが、その下は断面形状ならちょうど凸状に広がっており、その内側の壁面には石を敷き詰め倒壊から守る構造になっていた。当時地震の多かったこの地域の厠であった。

ところが、この時期、集落の男手はほとんど兵士にとられていた。朝鮮半島の動乱がこの地にも波及していたのだ。ヨシが穴を掘りはじめたが少年の手には余る作業だった。ヨシは朝から晩まで三日働き、自らの非力を悟ると次の朝、海へ向かった。

まえとおなじように、左手にサバをかかえて金を訪ねた。金はじっとヨシの話を聞き、聞き終わると、ヨシにつれられて集落に向かった。
ーーこれがその厠でございます
といい終わらぬうちに、金の気配が消え、見上げるとそこに次の厠ができていた。なにもいわず、金は洞穴へ立ち去った。

この厠はしかし使えなかった。なぜなら、すでにいっぱいだったから。隣のいっぱいの厠とまったくおなじ、いっぱいの厠ができてしまっていたのだ。ヨシはそのことは金に伝えず、次の日からだまって、まえの掘削作業を再開したのだった。

それからしばらくして、ヨシはある日、いつもとは違う様子であった。いつもは垢じみた身体を海水できれいに洗い流し、こざっぱりしたなりで金を訪ねた。
ーー弟子にしてもらえませんか

***

ヨシが大和からよびだされたのは、ヨシが金に弟子入りしてからほぼ十年後のことであった。
金はすでに亡く、ヨシの手元には金が秘蔵していた一巻の巻物があった。
この秘伝の巻物を読み金の指導をうけ続けてようやく七年目、ヨシは物を複製する魔術を体得したのだった。金はその直後、海岸沿いの高い崖から身を投げて死んだ。ヨシは泰然としていた。

ヨシも金とおなじように自分の魔術をひけらかすことは決してなかったが、やむを得ずにおこなったその魔術の噂はいつのまにか世間にひろまり、やがて大和に達した。

このとき大和ではひとつの事件が起こっていた。

数ある大和の王のなかでもひときわ抜きんでて大王と呼ばれる王家の跡目争いである。死の床にある現在の王の弟の玄武王と息子の朱雀王が対立していた。王になるには、王家に代々伝わる三つの秘宝を所持していなければならない。玄武王はそのうち青銅製の鏡と鉄製の剣をすでにひそかに現王の手から奪い取っていたが、最後のひとつ翡翠の勾玉は朱雀王に取られていた。玄武王の腹心はじつは朱雀王がどこに翡翠の勾玉を保管しているか知っていた。これを取り返せば玄武王が次期大王になれるのである。当然朱雀王の警戒はいや増すから、それを取り返すのは簡単なことではなかった。
そこで玄武王の腹心は一計を案じた。ヨシの魔術を使おうというのである。
勾玉は朱雀王がその権威を示すために、30日に一度、限られた祭儀の参加者に披露目されていた。その列席者にヨシを忍ばせ、そこで翡翠の勾玉の複製をつくり、それを持ち帰ることで大王の権威を得ようというのである。

ヨシは魔術をこのような策略につかうことを拒否したが、玄武王の腹心はヨシの母親を人質に取って脅したのだった。

策略は成功し、玄武王が大王に即位した。朱雀王は秘密裡に殺害された。

ヨシの評判はいや増した。

大王になった玄武王は当時の中国王朝の冊封を受けることを望むと、かの国に獣の毛皮を朝貢しその返答にかの国からの使者を受け入れることになった。

使者の随行者の一人に、とある仏僧がいた。彼は常に分厚い巻物を懐中にもち、ときおりそれをとりだしてながめては使者になにごとか耳打ちするのであった。

あの巻物にはなにか重要なことが書かれているに違いない。大王になった玄武王の腹心はそう考えた。そこでふたたび、ヨシが呼び出されたのだった。彼の母親が人質にとられたのも前回同様であった。

祝宴のすきをぬってヨシはかかる仏僧の巻物を複製し、玄武王の腹心に献上した。

ところが、である。

腹心が巻物を紐解いてみると、巻物の姿かたちは元の巻物とまったく相違ないにもかかわらず、その巻物はまるで白紙、どれだけ巻き戻してみてもそこには一字の文字も書かれてはいなかったのである。

ヨシは召喚され、尋問された。
ーーそんなはずはございません、もいちど、確認いただけないでしょうか
かかる巻物を見てヨシは愕然とした。たしかにそこにはなにも書かれていなかったのである。
仏僧が所持していた巻物は白紙であったか。いやそんなことはなかった、傍目からその巻物を覗いた者は幾人もおり、たしかに文字が、しかも小さな文字でぎっしりと書かれていたのである。

ーーもういちど、やらせてください
しかし結果は同じであった。母親は殺害された。

***

大和を追放されヨシは丹後に戻った。彼はひとり、師の魔術師が暮らした洞穴にこもった。
ーーどうしてこうなったのか、どうして巻物に魔術は通じなかったか
ーーそうだ、ためしてみよう
ヨシは、あの秘伝の巻物、師から譲り受けた、あの秘伝の巻物の複製を試みることにした。

結果はおなじであった。
巻物は白紙で複製されたのである。

ヨシは悟った。
こういうことだ、この魔術は文字を複製できないのだ。なぜなら、文字が複製されてしまえば、この巻物、この秘伝の巻物が複製されることになる。
そうなれば・・・