L’héro de notre temps est composé des vices de toute une génération…”Quelques mois dans ma vie” par Houellebecq

ウェルベックの最新刊Anéantirの翻訳が「滅ぼす」というタイトルで出版されたのは、すでに数週間前、7月の末のことであった。書店の翻訳本のコーナーに平積みになっている、上下二冊分のそれがウェルベックの翻訳であると気づくのに少し間があったはずだ。フランスで出版されたのが、このところ彼の新刊はそういう恒例になっているのかもしれない新年早々、2022年の新年早々のこと(前作Sérotonineは2019年の新年早々、Soumissionは2015年の新年早々だったはずだ)。それから一年半以上も経っているのだから、ひょっとしたら翻訳は断念したのかもしれないとすら思っていたくらいなのであったし、それだけでなく、その装丁の意外さ(色使いの鮮やかさ)、と同時に、そのタイトルの意外さ(シンプル!)も、それをそれとして気づかせるのをはばからせただろう。一方で邦訳が上下二冊分に分けられていたことについては、むしろ当然のことのように受け止めただろう。実際、私も四苦八苦しながら通読し、読後混乱、前半と後半ではまったく違う作品のように受け止めたのだったから(翻訳を断念したかもしれないと推測したのは、この主題の分裂のゆえ)。

とはいえ、本人自身「世界で最も読まれているフランス人作家」と自負するウェルベックである。日本でも小説だけでなく、ウェブの記事をまとめた小冊子「ショーペンハウアーとともに」もエッセイ集「ウエルベック発言集」も翻訳出版されているのだ。新作は出版されないはずはなかった。

さてその新作の邦訳を待ちくたびれたころ(というのも、Sérotonineの邦訳はたしかフランスで出版された同年の9月頃だったろうから、ボリュームが違うとはいえ、一年半も要するとは思わなかったのだ)、昨年の暮れあたりから、ウェルベックのニュースが私の耳にすら聞こえるようになった・・・・

ウェルベック、パリの大モスクから訴えられた!(イスラム事件と呼んでおこう)

ウェルベック、ポルノ映像の差し止めを求めて提訴!(ポルノ事件と呼んでおこう)

さすがパンクなウェルベック、ファンを飽きさせない(注1)・・・・ところが、いくつかの雑誌のインタビュー記事に目を通してみると、ウェルベックさんどうやら、本気で疲弊しているらしい。

そしてついに、一冊の書物が緊急出版された。

“Quelques mois dans ma vie” par Michel Houellebecq

一読して、さて、これをどう読んだものか、と思ったのだった・・・・

まずはウェルベック自身がExorcismeと、そう書いているように、厄払い、精神安定剤として、書くことが要請されたと読んでみるべきだろう。

アムステルダムの裁判所で彼の訴えが棄却された3日後の3月31日に書きはじめた、と書いてあり、擱筆が4月16日、出版が5月23日であるから、書きはじめて2か月足らずで出版、まさに緊急出版である(もちろん出せば売れるウェルベックなのだから、出版社もそれなりの色気はあったろう)。

書くことでなにが起こったかを明瞭にする手続きは、冒頭からちょうど10ページ分のイスラム事件がいわば理想的な例であるかのようにして提示されている。事態を明らかにして、誤解を訂正し、謝罪する、その一連の手続きがここで簡潔に完結している。Le Pointに書けば(実際3月23日号に書いているのだけれど)もっとたくさんの読者の目に触れるのは間違いないけれど、それよりもこうやって独立した書籍の形で出版するの好もしいと、そんな意味のことを書いている。

ところが、ウェルベックを本当に悩ませているのはこの事件ではなく、一方のポルノ事件の方であるのは明らか。ポルノ事件にもこの手続きを適用しようというのだろうか。その場合、手続きはイスラム事件とは向きが逆になり、事態を明らかにして、(相手の)不正を指摘し、糾弾する、ということになるだろう。

しかし、86ページ分にわたって書きつづられるこの事件について、ウェルベックがこの手続きに成功しているとは決して言えない。実際、相手の不正というより、彼自身の凡ミスだと彼自身が認めているのだから。

ところで、こうやってみてみると、Anéantirとともに、この小冊子も2部構成になっているわけだ。そして、前半(とはいえ、最初の10ページ分だけれど)は非常にクリアにコンパクトに、論理明快に書かれている一方、後半は怒りと憎しみ、罵詈雑言、脱線を重ねて、論理も明らかではない。まさにexorcismeにふさわしいのがこの後半である。そしてむしろ、この脱線にこそ、この本の面白みがあると言ってもよい。

たとえば、ある脱線には、この度邦訳の成ったAnéantirの、そもそもの最初の着想はどこで生まれたか、そんなことに触れてある。Daniel Darc(誰?)へのオマージュにとFrédéric Lo(誰?)に誘われてレコーディングに参加したのだそう、そこでこのFrédéric Loさんが「le cancer de la langue」と口ばしったことに、まるでゴングが鳴ったような奇妙な感じを受けたのだ、と。
ただし、le cancer de la langueを恐れるからといって、Anéantirは断じてexorcismeではない、と書いている。小説とこの小冊子ではモチベーションはまったく違うに決まっている。

それならばウェルベックはポルノ事件を書きつづることで何をしようとしたのか。

しかも彼は、最後の最後で、この事件はすぐに忘れ去られるだろう、彼の読者もこの事件のせいで彼を見限ることはないだろうと、そんな意味のことを書いているのだ。
(フランスメディアの中で彼の立場がなくなったというのだけれど、もともとそんなものにこの人が関心をもっていたとはおもえない)

それならば、一体彼はこの本を(緊急)出版することで何をしたかったのか。

ウェルベックはKafkaの「審判」の最後の一節を引用して、まるで自分の代りに恥が生き続けるようだ(Et, c’était comme si la honte devait lui survivre)と彼の心境を書いている。

自分はフェミニズムを嫌悪している(フェミニストも自分を嫌悪している)けれども、自分の意に反して映像をネットに拡散される心境というのは、暴行された女性のそれを思わせる・・・・どうして暴行した奴が恥じなくて、された側が恥じなければならないのか、と。

とはいえ、とウェルベックは言う。sexualitéはmoraleとは別のものである。

Baudelaire「FLEURS DU MAL」の「Femmes Damnées」から

Maudit soit à jamais le rêveur inutile
Qui voulut le premier, dans sa stupidité,
S’éprenant d’un problème insoluble et stérile,
Aux choses de l’amour mêler l’honnêteté!

sexualitéはmoraleとは別のものである。ポルノだからと言ってなにかモラル上の不義を指摘されるいわれはない、sexualitéは恥とはまったく無関係であるべきだ、というわけだ。

どうやら、ウェルベックが糾弾したいのは(もちろんゴキブリ野郎、メス豚、バカ女、マムシ女でもあるのだけれど)、sexualitéを恥に結びつけさせてしまうような、同時代的な悪 Mal moderne であるらしい(注2)。

つまり、ウェルベックがこの出版を思い立ったのは、このネット中心の時代、この時代に特有の悪というものがあり、それはその仕掛け人をほんの15分だけ有名にする程度のもの(Andy Warholの引用)で、皆すぐに忘れてしまう程度の悪なのだけれど、とにかく、ウェルベックのポルノ事件がまさにそれであった。

最後の最後、これはいわば「謝辞」であろう。Gérard Depardieuに捧げる謝辞である。

Depardieuとともに、そんな同時代的な悪のはびこる世の中に生きていて、特に彼ら有名人はそのことに意識的でなければならなかった。Gérard Depardieuがウェルベックに書くことを促し、裁判を続けることを促したのだ、と。

Anéantirの後半の主題の、そのひとつはきっと、死とsexualitéだったろう。本体まったく逆の向きをもつふたつのことを結び付けてしまうのが、生命の不条理であるというような・・・・

その一方、この小冊子の後半の主題は、恥とsexualité。本来まったく別のことであるふたつのことを結び付けてしまうのが、現代的な悪だ、そうウェルベックは言いたいらしい。

(注1)本人はこの小冊子の中で、自分はSex PistolsよりPink Froid、baba hardじゃなくてbaba coolだと言っている。

(注2)それに対してもっと本質的な悪 Mal en généralというものがあり、ウェルベックによれば、それはBaudelaireが「FLEURS DU MAL」のエピグラフに掲げた、次の詩につきるのだそう。

On dit qu’il faut couler les exécrables choses
Dans le puits de l’oubli et au sépulchre encloses,
Et que par les escrits le mal resuscité
Infectera les mœurs de la postérité ;
Mais le vice n’a point pour mère la science,
Et la vertu n’est pas fille de l’ignorance.
(Théodore Agrippa d’Aubigné, Les Tragiques, liv. II.)

(付記)ためしに、おそるおそる、Kiracのサイトを見てみると、「Updates on KIRAC Ep.27 ft. Houellebecq」なる表題でNew York Timesの記事が紹介されている。ところが、この記事からしてがKiracの真意を測りかねるようにして書かれているのだし、そのような記事を堂々と自分たちのHPに貼り付けるということからして、この人たちの姿勢にはいかがわしいところがあるわけだ。アムステルダムでのウェルベックのイベントに、この代表者はウェルベックが彼をそう呼んだのを逆手にとってゴキブリの着ぐるみで現れたというから、これもまたふざけた話であり、名前を売りたいだけの迷惑ユーチューバーのやり方を思わせる。