毎月文芸誌の目次をみているのだけれど、ここ数年、読んでみたい著者やタイトルにめぐりあうことは少なくなった。文芸誌というのは、新潮社の「新潮」、文藝春秋社の「文学界」、講談社の「群像」、集英社の「すばる」の四つのことで、こうやって数えあげてみるといつも、東京の四つの寄席(「新宿末廣亭」「池袋演芸場」「上野鈴本」「浅草演芸ホール」)のことを連想してしまう。寄席に行かなくなって久しいし、こっちのほうは看板(つまり目次)をチェックすることすらなくなってしまった。
そんな文芸誌2024年2月号のなかでひとつだけ、読んでみたい記事があった。「新潮」のこれである。
◆アイデンティティ・ポリティクスを超えて――『構造と力』文庫化を機に/浅田 彰
この人の近況もよくわからなくなった。数年前までは田中康夫との「憂国放談」をウェブで読むことがあったけれど、いつのまにか思いださなくなったものだからしばらく見ていない。この機会にチェックしてみたら、最後の更新は2022年の年末らしい。
とまれ、そういうわけで近所の図書館に行き、この記事を読んでみることにした。この図書館では新刊雑誌は開架に置かれておらず、窓口で借り受け館内でのみ読むきまりになっている。そこで窓口で「今月号の新潮を」と言ってみると最初にわたされたのは「週刊新潮」、これじゃなくてというと、次に出てきたのが「小説新潮」。窓口の後ろの棚に新刊雑誌が並んでいて、窓口の人がそこから雑誌を取り出しているのが見えているから、それじゃなくて、その「少年マガジン」の横にあるのがそうじゃないですか、と言ってみると(あいうえお順なわけだ)、ようやく文芸誌の「新潮」が出てきたのだが、これはまだ最新号ではなかった。次の日改めておなじ図書館に行き前日とおなじように「今月号の新潮を」と言うと、この日もまた「週刊新潮」「小説新潮」のあとでようやく「新潮」がでてきて、これは目的の最新号であった。
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きっと浅田彰の記事が、文章にしろ談話にしろ、文芸誌に掲載されるのは久しぶりのことだろう、その記事のことである。テーマは副題のとおり「構造と力」の文庫化、それにあわせた談話らしい。
前半は回顧譚、「構造と力」を出版した背景、浅田の来歴とスタンスが簡潔に自己紹介されている(「現代思想」より「パイデイア」の方が先で、しかも編集者がおなじだったとは知らなかった)。「構造と力」を出版した1983年は日本のポストモダン元年だと言っているのは当然それなりの自負があるわけだ。「構造主義のエッセンスは同一性を差異に分解することだった」と言っている。それをダイナミックの捉えると、ドゥルーズらの「差異化」「差延」になるのだ、と。このくらいならおれでもわかる、ような気がする。
中盤には書き足りなかったことを「大規模な構図に対して中規模な紹介も」という補足。サルトルは「1」の思想(しかし対他存在なら斜線の引かれた「1」だと言っている)、メルロ=ポンティは「2」(これがラカンの想像界=鏡像段階に相当するのだそう)、そして浅田がその後もフォローし続けたという、ラカンの「3」(は父の介入によってイマジナリーな全能性を断念する「象徴界」、これで「3」なのだけれど、「象徴界」には「現実界」という裂け目=語りえないものがあるという意味で斜線の引かれた「3」だ)という具合にして・・・・こうなるとわかったようなわからぬような。
後半は浅田の現状認識が語られている。主にアメリカの民主党対共和党、バイデン対トランプを挙げての現状分析。日本もヨーロッパも、アメリカのそれに相似形ということなのだろう。マイノリティによるアイデンティティ(LGBTQ+)の承認要求を背景にする民主党、それがマジョリティであったはずの白人貧民層の承認要求(逆ギレ)を刺激し、そこにトランプが介入して煽っているという事情(ネットをあたってみると、すでに一年前の憂国放談の最後の回(かどうかはわからないけれど)にもおなじようなことが話されている、ラカンにもこの記事とおなじような内容で触れてある)。
この現状分析にたいして浅田は、彼が「構造と力」のあとに出版した「逃走諭」の「逃走」の主題に言及する。いまなら「逃走」はアイデンティティからの逃走、アイデンティティの放棄にふさわしいというわけだ。1983年出版の「構造と力」が文庫化、浅田の定義にしたがえば古典化したいま、1984年の次作「逃走諭」が現代の処方箋としていまだに有効である。それは承認からの逃走、他者の承認の放棄でもあるから、と。
ところで、マイノリティも自らのアイデンティティを声高に主張すればマジョリティのマッチョなアイデンティティとかわらない。だから、マイノリティもそんなアイデンティティは放棄すればよい。
すると、その先に何があるだろうか?
浅田はその果てに「LGBTQ+」の「Q」をみいだす(注)。
「Q=クイア=変態」になることを慫慂するのだ。
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そう、われわれは変態しなければならない。アイデンティティなどにこだわってはいけない。そんなものは幻想にすぎない。そもそも肉体的にいえば、われわれは日々変わり続けているはずだ。もし変わらないというならば積極的にそうすべきだ。つまり、積極的に変態しなければならない。
そして・・・・変態の最終形態を目指すのだ。
それは、認知症である。
認知症になるということ、それは、いまだけを生きる、ということだ。過去も未来もない、アイデンティティなど思いも及ばない。目的も手段もない、道のまんなかになにもせずに突っ立っている人。
いわば純粋な存在、なにももたない人間、変態しつくした人間、認知症とはそのようにとらえるべきものなのだ。いわば、人間の完成形態、最終形態。
認知症に変態した人間、これこそをクイア=変態と呼ぶべきだろう。もちろん浅田がそうしたように、偽善的なポリティカル・コレクトネスに抗してのことだ。
われわれは積極的に認知症にならなければならない。
※注 こうなるとまるでヘーゲルのような気もする。マジョリティのアイデンティティ(の放棄)に対して、マイノリティのそれ、そして第三項に「Q」をもって(否定)弁証法が完成する、と。もちろん「Q」にアイデンティティを要求してはならない、認知症なのだ。
