正月の高齢者住宅には相当数の老人が自室にひとりで過ごしている。
もちろん家族に連れられて外出したり、大晦日から家族のもとや旅行にでかけているものもいるらしい。
昨年のゴールデンウィーク明けにゴルフセットを抱えて帰ってきた例のでっぷり肥った老人は、この正月もどこぞにゴルフに出かけているかもしれない。
わたしもこの朝は8時過ぎに母を訪ねた。
母はすでに寝間着から普段着に着替えていたが、それを正月用だといってもあまりかわり映えのしない洋服に着替えてもらい、それから連れ立って部屋を出た。
玄関では郵便受けから新聞を取り出している老女に会い、わたしひとりが挨拶を交わした。母は茫然としている。彼女はいつもなら仲良しの老女と二人で過ごすことが多い様子だったが、この正月はひとりで過ごすのかもしれない。
わたしの家では妻がまだお節料理の準備に格闘していた。早々に母を我が家に連れて行っても互いの気疲れと妻の剣呑さをいや増すだけだろう。
しばらく朝の散歩である。さいわい雲ひとつという陽気であった。
高齢者住宅とわたしの住むマンションは五百メートルくらいの直線道路で行き来でき、その中央あたりを一本の川に垂直に仕切られている。その川をマンション側に渡る橋の先に、野球場くらいの芝生の広場があり、その周囲が遊歩道のようになっている。高齢者住宅からマンションまでの道と、この遊歩道一周を「の」の字にたどれば、それが母の散歩にはちょうどよい距離だと、わたしはそうおもっている。
散歩の間、母は無言である。
母は父と死に別れてから五年間自宅にひとりで住み続け、わたしも三月に一度くらいの頻度で母の住む実家を訪ねていたが、例のコロナ禍を電話だけで済ましている一年間を過ごすと、母は認知障害が明らかになっていた。
他人と会わない生活が母を認知症に追いやったものと当初は考えていたのだが、コロナもおさまり、それ以前のことを思いだすにつれ、コロナだけが認知障害の原因だとはおもえなくなった。
もっとずっと以前から母はこんな様子だったのではないかと、わたしはこのところ思うようになっている。高齢者住宅に母をよんで以来母と毎日顔を合わせるようになってから、このいまの母の様子が、おなじ人であるはずの母にまつわる過去の記憶をわたしから少しずつ消し去っているのかもしれない。
母をわたしの住むマンションに近い高齢者住宅に連れてきたのは、ちょうど一年前、おととしの暮れのことである。
いま母は一年前まで暮らした実家のことをほとんど覚えていない。
運動能力に支障はないし、かかえている病気もないが、一年前にくらべると動作は緩慢になった。
そして、あまりしゃべらなくなった。
陽を浴びながら歩いている遊歩道に囲まれた芝生の広場にはまだだれもいなかった。遊歩道に沿ってところどころにおかれたベンチには、二人連れだったり、あるいは五六人のグループだったり、そんなかたまりが三つ四つ、距離をおいて点々とあり、座ったり立ったりしている。
奇妙なのは、そのかたまりを成すのはいずれも男の子ばかり、高校生くらいとおぼしい男の子ばかりで、女の子のすがたはひとりも見あたらなかったこと。
大声をあげたり音楽を流すでもなく、走り回ったり騒いでいるわけでもなく、みな各自手に取ったスマホをながめているばかりで、隣同士でひそひそと言葉を交わしている様子は隣り合うもの同士の口の動きからみえるものの、かたまりでまとまって話しをしているようでもない。
ひと周りするあいだ、そんなグループをひとつひとつ横眼でみながら、母とわたしはゆっくり遊歩道を歩いたのだった。
広場をぬけて道路ですれ違う人たちもこの時間にしてはわりに多く、しかしみな高校生くらいとおぼしき男の子たちばかりであったのは、あらためて不思議なことであった。
***
母を食卓の一方の端ににおいて妻とわたしと三人でする、会話のほとんどない、剣呑な食事のあと(しかしお節料理は豪勢に三段のお重に盛られてあり、それ以外にも大トロやブリの刺身、大皿には煮物、そして雑煮もあった)、母はしばらくマンションの窓から射す陽を浴びていたが、退屈そうにしていると妻がいうので、わたしは母を連れてふたたび散歩にでることにした。
朝の散歩とは逆向きに歩くだけである。
遊歩道に囲まれた広場はにぎやかになっていた。小さな子供たちがたくさんいて、彼らを連れた若い夫婦だったり、壮年の祖父母たちらしい。男の子ばかりのグループはもうどこにもみあたらなかった。
凧あげをする子供が三組ほど。風はあるが、走り回るばかりで、いずれもなかなか上手にあげられないらしい。
ふと見上げると、ひとつだけ凧があがっている。
かなり上空に、風にのって、縦横に青空を切り刻むようすがみえる。わたしが立ち止まってその凧をみていると
ーー凧やな
と母が言った。
ーーようあがっとるな
凧糸を辿ってみると、しかしその延長はこの広場からすこしばかり外れているらしい。たかくあがっている凧を見やりながら、広場のほうの、こっちはあがらないけれど楽し気な凧をもあわせて見やりながら、母とわたしはゆっくりゆっくり遊歩道を歩いた。
しばらく歩くと高くあがっている凧の凧糸の根本がみえるところにさしかかった。
凧糸の根本は、遊歩道の外周に芝生の広場を囲むように植林された桜の木の枝であった。どうやら、桜の木の枝にひっかかった凧をそのまま放置したものらしい。
それにしても、広場では苦戦する子供たちをしり目に、ひっかかった凧は見事にあがっているのだった。
ーー凧糸がひっかかってるね
とわたしは母に教えた。母はわたしが指さした凧糸の絡む枝を見て、そこから凧糸をたどって、大空に悠々と風をきる凧を見上げた。
***
夕方になって、わたしは三度高齢者住宅を訪ねた。
昼の散歩のあと母を高齢者住宅に連れ帰ると、それから母はいままで自室で昼寝をしていたらしい。
ーー夜のご飯も今日はわたしの家で食べようね、朝も一緒に食べたでしょう?
ーーそやったかな・・・・
と母はキョトンとしている。母の短期記憶はその程度、当日の朝までも及ばない。
わたしたちは、昼には逆に歩いた道をこんどは朝に歩いたように順目に歩きはじめた。広場にはまだ子供たちの賑わいがあった。
すると突然
ーー凧がなくなったな
と母が言った。
ーーさっきの凧がなくなった
そう言われてみてわたしもおもいだした。さきほど悠々と空に上がっていた凧がみえなくなっていた。凧糸が引っかかっていた木の脇を通り過ぎるとき、木の枝をのぞいてみると、すでに凧糸はみえなかった。ほどけてどこぞに飛んで行ったものらしい。
ーー凧糸がほどけたんだね
と母に話しかけてみると、母はキョトンとした様子でなにも答えなかった。
