大江健三郎、ユマニストの不寛容?

その死がニュースになったのは3月の中旬ころだったろう。4月初旬に発行されるすべての文芸誌の5月号が一斉にその追悼特集を組んでからしばし間があり、つい昨日のこと、近所の本屋にユリイカの分厚い臨時増刊号が平積みになっているのにちょっと驚き、そして、そうか、みんなそうしているのだ、と気づいた。

だれもが、かつて夢中になって読んだ初期の大江健三郎を読み直し、そしてこの際だから、「万延元年」を最後に、それ以降読まなくなったその後の大江健三郎を、読みはじめようとしているのだ。

てはじめは、刊行時に書店でなんども手に取り、手に取る度その分厚さに圧倒され、躊躇し、結局買わなかった「自選短編集」(岩波文庫)がいいだろう、中期長編なら筒井康隆が蓮實重彦との対談(「同時代の大江健三郎」群像201808)で絶賛していた(「荒唐無稽」の)「同時代ゲーム」、後期ならその主人公の名前だけは知っている「取り替え子」、でも「大江健三郎全小説」全15巻に手を出すのはよそう、手を出したが最後、きっと日常生活が損なわれるだろうから・・・・余計な心配までしながら大江健三郎の周辺を渉猟するうちに、特権的な女性の名前が浮かび上がってくる。

「大江健三郎の「義」」を書いた尾崎真理子。

小説を読む合間には、これを読むのがいい。

・大江健三郎(聞き手:尾崎真理子)「大江健三郎 作家自身を語る」新潮文庫

すると最初の方、大江にとっては生涯の恩師、渡辺一夫との出会いのあたり、大西巨人と「若い批評家たち」の座談会で大西が渡辺を「貶めることを述べ」たという、だから、大江はその文芸誌と長い間関係を絶ったのだという内容のことを話している。

90年代の後半だったろう、大西巨人の「神聖喜劇」は絶版だった。古書店をずいぶん探してみて、最初に単行本の2巻から4巻まで見つかったけれど、肝心の第一巻がなかなか見つからなかった。ようやく、こっちは文庫本だったろう、第一巻が見つかった時にはすでに興味を失くしていた。そのうち、「神聖喜劇」は再版になり(漫画にもなったのではなかったか)、古本屋で購った四冊は、いつだったか手放したのだったろう。

ところで、手元にある資料をあたってみると、こんな対談のコピーがあった。
・大西巨人・柄谷行人「資本・国家・倫理」1999年11月8日
群像2000年1月号に掲載のものらしい。その最後の方で大西が、「往復書簡」(大江が「渡辺一夫評論選」岩波文庫の解説で引用しているものだろう)で「在野」の中野重治は「大学人」渡辺一夫をあしらっていたのだという意味のことを言い、さらに、「大江君が文壇に出たとき」という、まさに大江が例の対談本で指摘していた(大江に言わせると)「軽い文章」のことを大西は挙げ、それを書いた渡辺を酷評している。ということは、これが大江が指摘する当のものなのだろうか?「批評家「たち」」ではなく一人の批評家=柄谷との、「座談会」ではなく「対談」であったのだし、大江が2000年ころに講談社と関係を絶ったようなことはないらしいから、別の文芸誌に掲載された別の座談会で、大西がこれと同様の発言をしているのかもしれない。あるいは、講談社とは関係を絶たないけれど、「群像」とはしばし関係を絶ったのかもしれない。とはいえ、2006年には「群像」で大江健三郎賞がはじまっていたはずだけれど・・・・。

ところで、渡辺一夫はもちろん、中野重治も大江が特に尊敬する作家であるのだけれど、一方、大西巨人も大江に(いじわるだった「第三の新人」より以前の)優しかったという「戦後派」の作家である。かかる発言でも、大西は渡辺個人というより、中野重治の孤高を際立たせるために、大学人一般を批判しているようにも読める。

柄谷との対談での大西の発言がそれだとして、もしこの程度の発言がそれを掲載した出版社と関係を絶つまでの決断を大江にさせたのだとしたら、それはどういうことだろう。渡辺一夫は「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない」とまで書いた人であった。また、師匠に対する弟子の「忠誠」や潔さのようなことは大江のもっとも嫌うことに属するのではないか、とそうも思うのだけれど。また、このことで出版社と関係を絶つのなら、本多勝一が大江を批判したように、大江がそうしなかった、歴史修正主義に流れていた当時の文藝春秋社との関係を絶つ方が理解できるような気がする(本多勝一「大江健三郎の人生」、こんなものにまで手を出してしまった・・・・)。

渡辺一夫の「ユマニストのいやしさ」という文章を読んだのも、大江健三郎の死の後、大江健三郎の周辺を渉猟する過程でのことであった。