先日書店に平積みになった、大江健三郎の関連本を読んだことがきっかけになって、
・柄谷行人「終焉をめぐって」
を再読することになったのだけれど、その中の一篇に
・柄谷行人「同一性の循環」
がある。このエッセイの直接の契機となったのは、1987年10月に出版された大江健三郎の書き下ろし長編「懐かしい年への手紙」。これが柄谷に、彼が修士論文で取り上げたロレンス・ダレル「アレクサンドリア・カルテット」を思い出させ、このエッセイではまず、その修士論文の概要が説明される。つまり、この作品がヘーゲル「精神現象学」の構成(自然的意識→自己意識→理性→絶対知)に対応しているということ。そして、大江「懐かしい年」もヘーゲル的な円環に閉じられているということ。また、この閉じた円環では、固有名が消されるということ。ただし、その中に、閉じられた円環からはみ出ている固有名がある、そう柄谷は言いたいらしい。そのひとつが「万延元年のフットボール」なる作品である、と。
そして、最後はこんな風になる。
三角形のイデアがあるとしても、それは三角形の内延的定義(内角の和が二直角とか)によって認識されるのではなく、また、外延的経験によってそう認識されるのでもない、それらは循環している。イデアの根拠は何か。
柄谷によれば、そこで、プラトンは「想起」をもちだし、つまり東洋思想に依拠し、イデア=同一性の根拠=輪廻となるのだそう。
この循環に「前世」を持ち出したのが三島由紀夫である、とそんなふうにして柄谷は三島由紀夫を召喚する。
三島は「豊饒の海」の第四巻「天人五衰」でヘーゲルのように「老年=絶対知」を完成させなかったが、それはヘーゲルの円環=自己意識を破ることではなくて、別の自己意識=ロマンティッシュ・イロニーに閉じこもることである、というのが柄谷の主張。
ところで、三島「豊饒の海」と大江「万延元年のフットボール」は同時期に書かれている。
「三島は「豊饒の海」を書くとき、大江的なエンド(「個人的な体験」や「万延元年のフットボール」のエンド)を拒否しようとしたのだといってよいだろう」
一方、大江「懐かしい年への手紙」はヘーゲル「精神現象学」と同じ構成になっていて、実際に、自己意識の内部で描かれている。
「こうしてみると、三島由紀夫と大江健三郎はロマン主義の問題をめぐって逆接している・・・・三島は「老年」を拒み、大江はそれを受け入れようとしている・・・・最後の戦争以後の生を認めない在り方(三島)と、最後の戦争におびえる在り方(大江)は、表裏の関係にある。彼らは「終り」にこだわる意識においてへその緒でつながっている。そして、それは「歴史」と切り離せないのだ」
ところで、このエッセイを含む「終焉をめぐって」の前半は、当時存在した文芸誌「海燕」の1988年1月号から89年の12月号にかけて断続的に発表されたものだった。
初出にあたってみると、それは書籍化とずいぶん違うことがわかる。そもそも構成からして違っている。書籍化では
1 固有名をめぐって
1.1970年=昭和45年――近代日本の言説空間
2.大江健三郎のアレゴリー――『万延元年のフットボール』
3.村上春樹の『風景』――『1973年のピンボール』
2 終焉をめぐって
1.同一性の円環――大江健三郎と三島由紀夫
初出では、
<固有名を巡って1>「1970年=昭和45年」海燕198801
<固有名を巡って2>「同一性の回帰――大江健三郎」海燕198804
<固有名を巡って3>「続・1970年=昭和45年(上)」海燕198909
<固有名を巡って4>「続・1970年=昭和45年(中)」海燕198910
<固有名を巡って5>「村上春樹の『風景』(1)」海燕198911
<固有名を巡って6>「村上春樹の『風景』(2)」海燕198912
のうち、結局(下)は書かれなかったようだけれど、「続・1970年=昭和45年」が「大江健三郎のアレゴリー」に対応する。
当初柄谷は「1970年=昭和45年」を発表してすぐに「万延元年のフットボール」を論じようとした(「隔月連載」と予告されている)が、そうはならなかった。大江「懐かしい年への手紙」が1987年10月の出版らしいから、これを読んで当初のアイデアを改めたのだろう。
そもそも、この時期の柄谷は季刊「思潮」で「近代日本の批評」連続座談会をはじめ(ようとしてい)たころだから、自ら担当した「昭和前期」思潮198907のレジュメのためにその当時の文献を渉猟していただろう。そのなかで、明治と昭和の並行関係(60年周期説!)を見出し、また、保田與重郎に遭遇してもいたわけだ。
そこで、「ロマンティッシュ・イロニー」によって三島を(さらに村上春樹を)解釈し、それを大江の「アレゴリー」に対置させるという発想を得たのだろう。
書籍版「同一性の円環」と初出「同一性の回帰」にもずいぶん異同がある。
たとえば前者について「三島由紀夫と大江健三郎はロマン主義の問題をめぐって逆接している」という文言を上に引用したが、それは後者の「私はこのどちらにたいしても異議をとなえたいのである」に対応する。
この文言には「<小説>を擁護する」という言葉がつづく。「同一性のなかに回収されない、自己意識によって吸収されないものとしての<小説>を。絶対的な外部性・他者性としてありつづけ、起源が不明でありそれゆえ終りも不明であるような<小説>を」擁護したいと、柄谷はそう言っている。
そこで、そのような<小説>として、大江健三郎「万延元年のフットボール」に遡行したはずだった。
ところが、先の「擁護」を裏切るかのように、書籍版で語られた三島と大江の「逆接」は、<固有名を巡って4>(「大江健三郎のアレゴリー」)の結末では「日本における「近代文学」の終焉をつげるものであった」と受け止められ、<固有名を巡って6>(「村上春樹の『風景』」)に至って、その真意が、村上春樹「ノルウェイの森」について「ロマンティック・アイロニーからアイロニーが抜ければ、ロマンティックが残る。つまり、彼はたんにロマンス(愛と死をみつめて)を書いたのである」という批評に行き着くことになる。
つまり、1988年4月号で、小説を擁護したいと言った柄谷だったが、一年半のちの1989年10月号では、日本の近代小説は「万延元年のフットボール」で終わったと言うことになったわけだ。
* *
柄谷行人の大江健三郎に対する評価がどうだったか、どんなふうに変遷したか、あるいは、その逆はどうだったか、そんなことを網羅的に調べてみたいような思いが頭に浮かぶのだけれど、そんな思いにはすぐに意気阻喪させられるし、むろん、大した意味もないだろう。
そのかわりに、書棚から目についたいくつかを取り出して拾い読みをしてみると・・・・
たとえば、大江と柄谷には
・柄谷行人・大江健三郎「全対話」
が単行本として出版されており、そこに1994年、95年、96年の三つの対談が収められている。このうち、
・柄谷行人・大江健三郎「戦後の文学の認識と方法」群像199610
には、大江の発言にこんなものがあった。
「本当に文学が必要で意味ある時代に自分が引っかかっていた、それを信じて作家活動をしていたのは、「万延元年のフットボール」のころで終わりじゃなかっただろうかという気持ちがあります。それから後は日陰者みたいな形で、社会の大きい動きとは離れた場所で、忘れられた作家のようにして文学をやてきたという感じがある」
また、たとえば、
・大江健三郎「いかに木を殺すか」
には1984年の短編連作が収められているが、そのうちの一篇「見せるだけの拷問」の冒頭には、大江本人がモデルとおぼしきUCバークレイに滞在中の「僕」に絡んでくる、大学教師を志す日本人の青年(中根君)が登場する。その青年は「フランス文学者で、日本文学への批評のみならず映画批評においても新しい権威のH氏」と並んで「経済学用語を文芸批評にとりいれて根強い信奉者を持つK氏」に心酔しており、彼らの意見を盾にして「僕=大江」を攻撃するのだけれど、この「K氏」が柄谷であり、「H氏」が蓮實重彦であることはだれもがすぐに承知する。大江はその青年に「HやKのいう、あんたのイカガワシサ」と言わしめている。
その蓮實重彦と柄谷のあいだに、1987、88年に交わされた対談をまとめた
・柄谷行人・蓮實重彦「逃走のエチカ」
には、蓮實の言葉に「柄谷さんと僕とで大江の時代を終わらせちゃったわけですね」というのがある。これはもっとも、批評家の仕事として「大江の時代」のように世間に流布する物語から、作家大江健三郎を解放したのだ、と言いたいらしいけれど。
もっと時代を遡ってみると、1977、78年の連載文芸時評をまとめた
・柄谷行人「反文学論」
は、最初の時評から大江健三郎をやり玉に挙げている。たとえば、1976年10月に出版された大江健三郎「ピンチランナー調書」を柄谷は、「原爆、赤軍、内ゲバ、障害者差別、政治的黒幕といった週刊詩的な「期待の地平」にそっているばかりでなく、それをこえていないから」これは大江の定義する「通俗小説」であるとバッサリ斬っている。そればかりでなく、かならずしも「万延元年のフットボール」を指すものではないようだ(し、むしろ「万延元年」以降の大江作品にあたるだろう)が、「大江氏のように人類学者の便利な一般概念を外から導入しただけの旧態依然たる作品」よりも、時代は中上健次にふさわしいという意味のことを書いていた。
* *
おそらく2000年ころだろうが、そのあたりをさかいに、柄谷行人は文学批評をやめたらしい。
その柄谷がふたたび、しかも唐突に、文学に呼び出されたことがあった。そして、それは日本国内ではなく、海外から発したものであった。
・曺泳日「世界文学の構造」(2016年12月)
がそれである。これは若い韓国の文芸批評家、曺泳日(ジョ・ヨンイル)が大胆に世界の近代文学を論じた評論。巻頭に柄谷の序文(あるいは讃か推薦文か)が掲載されている。柄谷が2003年に(文学には辟易したという意味で)不本意ながら発表したという「近代文学の終り」なるエッセイが韓国文壇で問題になり、日本では終わったかもしれないが韓国では終わっていないという意見が多数派を占めたのだそう。ところがそれに対して、
「ジョ・ヨンイルは、そもそも韓国に近代文学はなかった、という。彼の考えでは、近代文学は、ナショナリズムを経て帝国主義にいたるまでの歴史的過程を経験したところに成立する。ゆえに、韓国に近代文学はなかった。もともとなかったものがなくなるわけがあろうか。」
これはスゴイ。文芸批評なら、こういうハッタリを読みたい!
ジョはこの書籍を韓国で出版する以前にすでに
・曺泳日「柄谷行人と韓国文学」
なる書籍を出版していたという。その日本語版の出版にあわせて、柄谷は
・柄谷行人「文学という妖怪」文学界202003
で、彼が文学に呼びだされた事情と当時の柄谷本人の文学観を披瀝している。
この中で柄谷は「ルネサンス的文学」と呼んで、近代日本における嚆矢として二葉亭四迷と夏目漱石を挙げ、それへの1980年代の回帰現象として、井上ひさしを筆頭に、古井由吉、後藤明生、中上健次、津島佑子の名前を挙げているが、ここに大江健三郎の名前はなかった。
「ルネサンス的文学」というのは、「Cの優位の下で成立すると同時に、抑圧されたAを回復することによってそれに対抗する」文学だと定義されている。ここで、柄谷は社会を「ネーション=国家=資本」の結合体として捉えるのだが、ここでCはネーション=国家=資本のうち、資本主義がドミナントになった社会のこと、だから、端的に近代以降のこと。Aは「ネーション=国家=資本」結合体が成立する以前の原始共同体にあった(と柄谷が想定する)、完全に自由な共同体のこと。
柄谷は彼の最近の理論(「世界史の構造」「力と交換様式」)に沿ってそう言うのだけれど、この「ルネサンス文学」というのは、たとえば、ミラン・クンデラが「小説の技法」や「小説の精神」で描いていた近代小説の考え方とそう違わないだろう。手元にクンデラの本がないから確かめようがないのだけれど、柄谷も引用している、カフカが「審判」を朗読したとき聴衆は大笑いしたというエピソードは、クンデラが書いていたのではなかったろうか。
深刻な印象のあるカフカの小説であっても、ベースには笑いがある?ひょっとしたら、カフカさん、笑かそうとしてる?笑いというのが言い過ぎなら、驚きと言ってもいいかもしれない、困惑と言ってもいいかもしれない。なんだその妙ちくりんな話は!変な話し方をするじゃないか!聞いてりゃいい気になりゃがって!そんなふうに笑い飛ばす姿勢、それが近代文学のベースにあり、柄谷はそれを「ルネサンス的文学」とそう呼んでいるのではないか。
ギョッとする話もあった、とはいえ、かならずしも驚いたわけではない、考えてみれば何の変哲もない話であった、でも、なんだか居心地の悪い感じがする、その話しぶりか?
・・・・そんなことが言葉のフレームワークをゆすぶり、言葉の使い方や意味あいをどんどん更改してゆく、それが近代文学の運動であったのだとしたら、あきらかにそれはいまや、小説の役目ではないだろう。
とまれ、大江健三郎といい、クンデラといい、そういう人たちだったのだ、小説家というのは。
(注)初出を確認してみようとおもいたったのがどういう経緯であったか、それがよくわからないのだけれど、どうも三島を呼び出す、柄谷のやり方に違和感があったらしい・・・・
