まだ帰宅ラッシュにはいくぶんはやい、下北沢の地下二階ホームである。
わたしはいつも、快速急行を見送ってその直後に到着する急行の、その最後尾に乗ることにしている。快速急行は、ラッシュ前のこの時間であっても、しかもその最後尾ですら混雑しているからだ。
急行のドアが開き車内に足を踏み入れるなり、この車内にはある独特の雰囲気があることに気づいた。ただ、そう感づいただけでそれが何なのかは判然としなかったのだけれど。
最後尾の車両に空席はない。つり革につかまっている乗客がそれぞれのシートの前に一人二人、あるいは、二人三人、ドアの両側にはその戸袋に身をもたれている乗客が必ずいて、ドアの前のスペースにも立った乗客がちらほら、彼らはみなうつむいてスマホを眺めている。
声を上げているのは小学校高学年くらいと思しい少年ひとり、あきらかにふてくされている様子。
ーーつかれたよぉ、すわりたいぃ
声変わり前のかん高い声が癪にさわる。半ズボンはすでに彼の身の丈には合わなくなっている。
みると、しゃがみこんでゴネるその子の目の前の座席には、同じ年頃の別の少年が腰かけている。
どうやらこの二人は兄弟、空いていたひとつの座席を争って、その争いに勝った方がいま、その座席を占めているということらしい。
そして敗れた方の少年が、座りたくて、ゴネているわけだ。
ーーすわりたいぃよぉ、つかれたぁ
癪だ。
電車は経堂駅に停車した。
ひとりの乗客が席を立った途端、ゴネていた少年がその座席をめざして駆け出した。
ところが少年より先に、しかしゆうゆうと若い女性がその座席に腰をおろしたのだ。座席の斜向かいにつり革をもって立っていた若い二人組の男女のひとりである。
出鼻をくじかれた少年は元の場所にもどりつつ
ーーあぁ、すわりたいよぉ
と悲嘆の声をあげている。いっさい恥じ入ることのない無邪気さがまた、癪にさわる。
席に座った当の女性は同伴の男性の方を見上げながら、先刻からの会話を続けるばかりで少年の方を一瞥することもない。
そしてほかの乗客も誰ひとり、この少年の方を見やる者はいない。
どうやらこの車内、悪い雰囲気ではないらしい。わたしはすこしばかり愉快な気分になった。
電車は動き出す。
と、ゴネている子供がおもむろに立ちあがると、座っている方の子供の前にすすみ、その子の足を掴んで座席から引きずり降ろした。
ーーいてぇ、てめえぇ
尻もちをついた子供は叫んだが、すぐに立ちあがるといちはやく元の座席に座りなおした。
ーーやめなさい、おうちじゃないのよ
そう𠮟ったのはどうやら、二人の母親らしい。車いす用に空いたスペースに立ち、さきほどから窓の外の方を向いて、化粧を直していた大柄な女性には気づいていたが、ゴネる子供のその足元にしゃがみこんでいるのは、どうやら母親に甘えてのことらしい。
二人の子供を連れて、ゾンザイに扱うその姿はなかなかあだっぽい。みれば、大柄な身体には胸から腰にかけてその豊満な女性的曲線を強調するようなニット系のワンピース、膝上からもその体躯に似つかわしい肉感的な太ももが覗いている。
なお、愉快である。
成城学園前でもゴネる子供をめぐる笑劇は繰り返された。
今度は向かい合うシートから三名ほど立ち上がり降車するのだが、ゴネる子供より先に、間近に立った乗客がイッセイに腰かける。
かく言うわたしがその一人であった。少年は最初に狙った座席をあきらめると、今度はわたしの足元にスライディングするようにして駆け込んできたが、わたしはできる限りゆっくり、悠然とした身のこなしを意識して、座席に腰をおろした。そして決して子供の方をみやることはなしに、また悠然とした動作でかばんから文庫本を取り出したのだった。
子供は聞こえよがしに大きな嘆息を漏らしつつ、母親の足元にしゃがみ込む。母親は相手にしない。
成城学園で最後に乗り込んできたのは初老とおぼしい男性であった。頭は禿げ上がり、そのかわり豊富な顎鬚は真っ白である。背筋は伸び、足腰は丈夫そう。
するとわたしからみて斜向かいに腰かけていた、おそらく高校生だろう、制服姿の少女が立ちあがり、老人に声をかけた。
ーーそうですか、ありがとう。ふだんなら座りませんが、こういうときですから遠慮なしに。
老人はそう言って腰かけた。
なるほど、すでに老人は気づいていたわけだ。この車両にはひとつの合意事項があることに。
このガキはぜったいに座らせない、乗客みなのコンセンサスは教育的配慮である。
電車は動き出した。
ーーあら、間違えちゃったわ、さっきの駅で乗り換えだったのに。
母親は子供たちを促して、次の登戸駅で下車した。
